山の神8

2011.10.22.Sat.03:29
 背筋を悪寒がはいのぼる。冷えきった体が震えだした。きゅうに強い風が吹き、日差しがかげったのだ。しかし、おののきは寒さのせいだけではない。
 ずっ、ずっ、と、雪の上を麻袋か何かを引きずるような音がする。真人は息をのんだ。
(何かがくる)
 血の気がひいて、目の前が一瞬暗くなった。木の幹に背をあずけ、枯れた藪のむこうから現れでたものを見たとき、真人は歯を食いしばって悲鳴を飲み込んだ。
 大人の男でも抱えきれないような、白い大蛇が鎌首をもたげ、こちらを見下ろしていたのだ。
「身を伏せて。目を閉じているといい」
 御子さまはいつもと変わらない穏やかな声で、真人にささやいた。
 そうは言われても、目をとじているほうが怖ろしい。蛇の赤い舌が、色味の少ない冬の山ではひどくあざやかに見える。
「そっちへ行くぞ。気をつけろ」
 王のやや張りつめた声が聞こえた。
 蛇の肌は濡れたように光り、流れる血がすけて赤みがさして見えた。大縄よりもまだ太い蛇が、御子さまに巻き付いていく。
(なんてこった)
 みしみしと、小枝を踏むような恐ろしい音がする。胸あたりまで蛇に巻き付かれた格好で、なんと、このうえ驚きあわてることもない。巻き付いているのはツタではないのだ。
(こいつは何かをおそれるということを知らないのか?)
 狭也を、新妻を残して死ぬつもりとしか思えない。真人は怒りにまかせて、叫んだ。
「そまつにするな、命を」
 稚羽矢は驚いたように真人を見た。首まで締め付けられながら、声をはり上げた。
「そまつにしているつもりはない。これは、話し合いだ」
 蛇の尾が真人の足下の雪を払った。顔をかばうと、稚羽矢の静かな声ばかりが山に響いた。
「あなたの住処を騒がすつもりはなかったのです。わたしは敵ではない。あなたを追いやるものでもない。伝言にきただけだ」
 蛇がせわしなく舌をふるわせた。狭い岩の間を風が通るときのような、甲高い音が聞こえた。ひどく不快な音だった。
 ところが、稚羽矢は笑ったのだ。
「そうだな、あなたも、のどが乾いたろう。科戸王、たのむ」
 そばにいた王は、手にしていた水筒の栓を抜くと、大蛇の口めがけて放り投げた。暗い口の中に落ちた水筒を、大蛇は丸飲みにしたのだった。
「困ったな。足りないようだ」
 心なしか、大蛇は獲物を締めつける力を弱めたようだ。
「里を見おろす井築の山へ、山つ神をお招きします。どうか、笑みこぼし、実りも田畑にこぼれるように、領人を言祝いでください」
 稚羽矢が言い終わらぬうちに、軽やかな笛の音が響きわたった。それは、忘れもしない去る年の歌垣で、繰り返し奏でられた調べだ。
 足を踏みならして踊ったことを、体が覚えている。明々と焚かれた炎のはなつ熱が身をこがし、吹き出る汗が目にしみたこと。恋する人を目で追い、歌いかけるすきをうかがっていた、あの心浮き立つ晩が、一瞬だけよみがえったようだった。
 大蛇はいましめを解いて、驚くことに笛の音に聞き入っている。大蛇に凝視されて、それでも平気な顔で吹き続ける王は、一人も踊る者のない原野で、ただ無心に奏でることだけに心を傾けているようだった。
 ひときわ甲高く笛が鳴り、その余韻が木々の間にまぎれてしまうと、大蛇はずるずると腹ばいし、藪の向こうに消えていった。
 振り返った稚羽矢は、真人に笑いかけた。
「もう話はすんだ。帰ろう」
「すんだだと? 話なんてちっとも」
 言い出した真人の声は、すっかりかすれていた。
「あれは、山の神なのだ。山を荒らしにきたと思ったのだろう。ずいぶん前から、後を付けてきていたんだが」
 真人は驚いてものも言えなかった。
「科戸王がああしてくれて、助かった」
「ああしてって、叩き殺そうとしたのが、芝居だったとでもいうのか?」
 思わず王をにらむと、そ知らぬ顔で王は笛を懐にしまった。
「殺してやりたいのは本当だが、神に後ろをとられたままでは、分が悪かったのでな。歩きやめたら、いっぺんに飲み込まれるか、絞め殺されるか、どちらかだったろう」
 王は頬をゆがめるようにして笑った。
「選ぶなら、どちらがいい」
「あほらしい。どっちもまっぴらだ」
 冗談ではない。こんなおそろしい思いをするのはたくさんだ。
 稚羽矢はつぶやくように言った。
「今年の祭には招かれてくれるだろう。冷たい井の水もいいが、やはり酒が飲みたいと言っていたからな」
 もういちいち突っかかることにも疲れる。立ち上がろうとして、真人はよろけた。腰に力が入らない。稚羽矢が差し出した手を見て、真人はよそをむいた。
「一人で立てる」
「無理をするな。神に真向かって、気を失わないだけでもたいしたものだ」
「あんたらは、なぜ平気なんだ」
 科戸王がため息とともに答えた。
「平気なものか、わたしも手がふるえている。怒れる神がすぐに矛をおさめてくれて安堵したぞ。それも、御統のおかげなのだろうがな」
 胸元にさがる御統にふれながら、稚羽矢は考え込むようにうなった。
「山の神は輝に追いやられても、なお人々を案じていた。忘れられていたことすら忘れたように。・・・・・・土地神というのは、このようなものなのか」
 何かを振り払うように頭を振ると、稚羽矢は真人に肩を貸し、立たせた。
「山をおりるだけなら、少し楽をしてもいいだろう」
 次の瞬間、突然おとずれた天地がひっくりかえるような感覚に、真人は今度こそ悲鳴を上げた。
 
 
 
 
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