山の神7

2011.10.20.Thu.05:04
わらで編んだ沓が雪をふみしめる音と、自分の呼吸の音だけが、耳に響いている。先頭に立ち、山の道を歩きながら、やっかいな役目を押しつけられたものだと、もう何度目かわからないため息を真人は吐き出した。
 まほろばからの客人を、古い山の神のもとに案内せよ。領長からそう命じられたとき、すぐに断ればよかったのだ。体の具合がよくないとか、足が痛いとでも言って。
 しかし、さんざん酒を振る舞われたあとで、いやだとは言いにくく、そう言えるほどふてぶてしい性質でもない。
「おい、御子さん。もうだいぶ進んだが」
 後ろをちらと振り返ると、難儀な道を弱音も吐かずに優男がついてくる。
「もう少しだ」
 胸元にさがる御統から、真人は目をそらした。真人が父から伝え聞いた、山の奥の滝にある巌座には、なんの気配もないようだった。
 そこで引き返せばよかったのか。光るふしぎな御統が、山の神のもとへ導くというのなら、道案内などいらないだろう。
 とはいえ、山になれない者をほっておくこともできない。御子さまときたら、あやうい足下を見もせずに、ざくざくと進む。まだ溶けない雪におおわれた山の道では、まさに命取りになる無防備さだ。
 鏡を拝する輝の領人として、大御神の末の子を軽んずわけにはいかないが、どうも釈然としないものを感じるのだ。
 輝の御子がなぜ山の神に用がある?
 古い神を深山に追いやったのは、輝の威光ではないか。
 忘れられた神のもとにいって、なにをしようと言うのだ。ねぎらうといったって、一体どうするつもりなのだ。
(ふにおちない)
 いつのまにか狭也の家で飯を食っていた、やけに目つきの鋭い男のことも気にかかる。身のこなしにはすきがなく、態度はこのうえなく不遜ときている。どうみてもただ者ではない。
(こいつらは、なんなんだ)
「知らぬふりなどしおって」
 真人は耳をそばだてた。王というたいそうな名で呼ばれる男は、じつに憎々しげにそうつぶやいたのだった。
「なんのことだ?」
 のんきな声で御子さまは応えた。背を向けていても、王の怒りはあきらかで、ひやりとするほどだ。しかし当の御子さまときたら、のんびりとしたもの。愚かではないと狭也は言ったが、本当かどうか真人はまだ疑わしく思っている。
「狭也のことだ。ほかになにがある」
「狭也か」
 一瞬口ごもり、御子さまはこう言った。
「たしかに、険しき山だな。二人で登るのだから。でも、ゆうべはあの人をおいていってしまった。次は、もっとうまくやれる」
 痛みににたうずきがおそってきて、真人は思わず立ち止まった。
 夫婦になったのか? いや、まさか。
(こいつは、新枕も知らなかったんだ)
「その口が二度と開けんようにしてやろうか」
 突き刺すような冷たい声に振り返ると、王は手にした杖を御子さまの首もとに、ひたりと当てたところだった。
「ちょっと、待ってくれ」
 聞く耳もたずに杖を振りあげると、王は御子さまめがけて振りおろした。ただの古ぼけた杖が、持ち手によって凶器にかわるなど、真人にとってはまったく思いもよらないことだった。よほどの殺意がなければ、こうまでするまい。
(そうか)
 怒りは、やるせなさのあらわれなのだ。
 あきらめを受け入れた真人とは、どうやら違う。実らぬ想いの苦しさは、あいたばかりの傷口のように生々しく、痛みも刺すようなものなのだ。
 まともに受けたら、ただではすまない一撃を、御子さまは難なくよけた。美しい面はすこしも動かず、驚いた様子もない。
「何を怒っている」
「きさまだけ女神の御元に送り届けてやる」
 身をかわす動きはなめらかで、息を切らすこともない。雪に足を取られて、御子さまが木の根元に倒れた。雪にまみれて、はじめて驚いたように目をみはった。倒れこんだとき枯れ枝に引っ掛けたのか、頬に一筋の赤い線がにじんだかと思うと、つっと血がたれ落ちた。
(こいつは、子どものようだ)
 野につもった雪のように白く、まっさらだ。この世の道理など知らないから、無知で愚かにも見える。狭也の言っていたのは、そういうことではないのか。
 王は杖をかまえ、転んだ御子さまに近づいてくる。
「いい加減にしろ」
 たしかに、憎たらしい相手だ。しかし狭也の泣き顔を思うと、むげにも扱えない。本当に腹立たしい思いで、真人は叫んだ。
「山での諍いは禁忌だ」
 王はふと立ち止まり、空をあおいだ。
「おい」
 ひとさし指を口に当て、王は真人を見た。
(黙れだと? 山を騒がしたのはあんたらだろう)
 むかむかしながら御子さまを見下ろすと、目があった。
 ほほをぬぐい手の甲についた血をなめると、御子さまは低い声でささやいた。
「荒ぶるものの気配だ。そなたは下がっていたほうがいい」
 
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