櫛名田が孕んでいることをはじめに見抜いたのは、やはり目の肥えた産屋のばばが最初であった。櫛名田ははにかみながら、須佐ノ男にそのことを告げた。
 孕んでいるとはいわれたものの、櫛名田自身がなにやらふしぎな気持ちだった。我が身のなかに、べつな生命が息づいているということのふしぎを迎え入れると、櫛名田はまず嬉しいよりも奇妙なのだった。

 あたらしく打ち立てたばかりの白野の庄での生活にようやく馴染んできた矢先のできごとだったから、須佐ノ男が驚いて何か言う前に、お祭り好きな庄のひとびとがこれをダシにして宴に持ち込まない方がふしぎなのだった。

 白野の庄は大蛇神の守っていた砂鉄の採れる山々から恵みを貰い受け、鍛冶びとの里として成り立つ場所だ。砂鉄をとかし、よけいな澱を流しだし、玉はがねという真鉄をとりだす作業をする女人禁制の高殿。ふだんであれば女がけっして立ち入れないような場所に踏み込んだ櫛名田を、この日ばかりはだれも叱る者はいなかった。

「いやはや、いつまでも子供だと思っていた嬢が、母親とは!」

 そう言ったのは、八耳である。八耳は掛矢の長の地位を弟にゆずり、じぶんは高志にできたあたらしい白野の庄に何人かの掛矢のひとびとをひきつれ、鳥髪の人々とともに里造りに加わっていたのである。

 八耳はいつものように両手をたたき合わせ、音頭をとりながら足を踏み鳴らした。宴の開始はきまって八耳の歌からはじまる。大きな身体に似合わず美声の持ち主である彼は、よくひびく声をはりあげ、喉をふるわせて上座にすわった須佐ノ男と櫛名田のまえに躍り出た。今日の宴の主役はふたりである。

 やくもたつ 出手母八重垣 妻籠みに

 八重垣つくる その八重垣を

「つぎつぎと雲がたちのぼる。わき出てくる雲は、さながら八重垣をなす。新妻を籠もらせようと、だれの目からも隠そうと、八重垣をつくるのはどこのどなただ?」

 歌の意味は、えてしてこういうものだった。ほどよく酒のはいったひとびとが、喚声をあげてから口々に唱和をしだした。須佐ノ男はおもしろがって、じぶんも歌い出した。八耳と比べるとさほど大きな声ではなかったが、けしておとらぬやさしくてよく響く声だった。

 やくもたつ 出手母美山の 涯まで

 浮きし雲群 うかうかと 我すがすがし この美き地にありて

「つぎつぎと雲がたちのぼる。見渡すかぎりに出手母特有の、たおやかな山なりをみせる山々がある。その漂っている雲群にもおとらずにわたしはうきうきとして、足元もふわふわとなにやら定まらないよ。酒のちからなどいらないようだ。わたしはまったく気分がいい、このすばらしい土地にあって」

 須佐ノ男の歌の意味は、このようであった。須佐ノ男は八耳にむかって笑うと、からかいを籠めて言った。

「わたしだって少しばかりなら歌えるのだよ」

 八耳はやられたという表情をして見せた。

「きいておられたのか、ああ、まずいことを言ったものだ」

 口噛みの甘酒で顔を赤くしたおとこが、櫛名田にささやいて言った。ささやきといっても格好だけで、やけに大声なのだった。酔っているから小声と大声のちがいもわからないに違いない。

「八耳はね、須佐ノ男どのがねたましいのさ。なんていったって、草醤になるのをじりじりとして待っていたすずしろを、横からかっさらわれたんだから」

「黄太、よけいなことは言わんでいいよ」

 八耳はあわてもせずにそう言った。にわかにすずしろが出てきたものだから、ますます何がなんだかわからない。けれど櫛名田をながめる八耳の瞳がひどくやさしいので、櫛名田は戸惑って目をそらさずにはいられなかった。黄太はつづけた。

「どんな益荒男だろうと、見目よかろうと、なにかひとつでも欠点があるって言い張るんだ。八耳はちいとばかし声に自信があるもんだから、須佐ノ男どのに挑戦をしたんだよ。さあ、櫛名田、どっちに勝ちをやるね? じつはみんな、そいつが気になっているんだ」

 櫛名田は迷いもせずにこたえた。

「二人にあげます」

 須佐ノ男はなにがおかしいのか、櫛名田のとなりでひとり笑いをもらした。櫛名田はかまわずに言った。

「わたくしにはどちらもすばらしく聞こえたわ。甲乙なんてつけられない。どうしても決めるといいはるなら、ふたりで手鞠の回数でも競ってください」

 そう突き放すように言い切った櫛名田に、ひとびとは少ししらけたようだった。ここで櫛名田が八耳に勝ちをあげれば、庄での八耳の株があがる。だれもかれも八耳の鷹揚さ、明るさを好ましく思わないひとはいなかったのである。櫛名田が須佐ノ男に勝ちをあげれば、ますます須佐ノ男への尊敬の気持ちが高まったことだろう。櫛名田がどちらに勝ちをあげるかで、須佐ノ男と八耳、どちらにつくかを庄の人々は決めようとしていたのだった。

 白野には、今、長が二人いる。正しく言えば、長として人々の上に立ち、彼らを指導する人間がふたりいるということである。須佐ノ男と八耳のどちらが白野の長か、きっちり決めないことには人々の気持ちがすまないらしいのである。じっさい、白野にまだ長はいなかった。須佐ノ男は八耳にゆずり、八耳が須佐ノ男にゆずるといった具合で、長の席はいまだにからっぽなのだった。

 まったくばかげたことなのだ。当人たちがどちらが長になるかで争っているならばともかく、庄の人々がおのずと須佐ノ男派と八耳派にわかれだしている。櫛名田だって、庄の空気が近ごろ微妙なものになってきているのに気づかないはずがなかった。いまの宴も左と右にきれいに人々が別れてしまっている。

 八耳をとくべつ持ち上げているのが黄太という男で、もともとは掛矢の人間だ。彼は口には出さないものの、須佐ノ男をあくまでよそ者とみなしていた。大蛇神を鎮めてくれたことはありがたいが、しょせんはよそ者だと。

 それに反して須佐ノ男をひいきにするのが、鳥髪の麻由利だった。麻由利は須佐ノ男を名前ではなく、英雄どのと呼ぶときがおおく、まさに鳥髪をすくった英雄として須佐ノ男に心酔をしていた。

「櫛名田の言うとおりだ」

 須佐ノ男は言いながら、にこやかに笑った。

「八耳もわたしも、勝ち負けをきめるために歌ったのではないよ。櫛名田の腹の中の赤子のために歌ったのだ。言祝ぎ歌に優劣をつけることはできまい? どうあっても決めたいというのなら、黄太、おまえが麻由利としりとりでもすればいい」

 黄太がにわかに勝負などと言い出したものだから、麻由利のほうも息巻いていた。須佐ノ男はなにげなく彼らを制したのだった。

「しりとりか」

 黄太は酒で濁った目のまま、ふいに高笑いをした。なにやらいやな笑い方だったので、櫛名田はおどろいた。黄太はすこしばかり高天原に偏見をもっており、高天原びとである須佐ノ男を心底からは受け入れられないらしいのだ。そうとはいえ、いつもは須佐ノ男への最低の礼儀はかいたことがなかったのである。酔っているとはいえども、こんなにからんでくるのはおかしい。

「いいだろう、面白い。言葉のしっぽをつかんで行くうちに、須佐ノ男どのよ、あなたの化けの皮からほどけた糸も、もしかしたらおれがつかんでしまうやもな」

「なにが言いたい」

 須佐ノ男はくちびるから笑いをけした。しかし咎めるような口調ではなく、むしろさびしそうな声だった。櫛名田は彼の瞳に、わずかなあきらめの色をみつけていた。

「須佐ノ男どの、あなたはいつ高天原へ覆奏をされるのだ? 庄もできあがり、われら鍛冶びとは早くも白銀をあつかえるようになった。これは素晴らしいことだ。鍛冶の技術をわれらに教えてくれた、須佐ノ男どののおかげだ。白野はこれからますます豊かになるだろう、ますます栄えるだろう。だが、その繁栄に高天原が目をつけぬはずがない」

 黄太はおどけた口調でかさねて言った。しかし須佐ノ男を眺めるまなざしに浮かぶのは、あきらかな須佐ノ男への不審、それと苛立ちだった。「あなたはまことに、白野を第二の鳥髪と考えておられるのだろうか。もしや白野を高天原のものとして天照に差し出すつもりではあるまいか」 八耳はそれを聞くとすぐさま渋い顔をした。

「だれか、この酔っ払いをここから連れ出せ」

「八耳、おまえは甘い。こんな男を信用して良いものか、この男は高天原びとだぞ。おまえもわかっているはずだ、腹黒い高天原びとがどうして信用できようか」

 黄太は須佐ノ男をにらみつけていたが、ふたりの里人に両の脇を掴まれ室から引っ張られていくときになると、しゃくりあげるような声になってわめいた。

「そのうち軍がやってくる。高天原の軍がおれたちのところに。どうすればいい、どうしたら逃げれるだろう。だめだ、どうあっても逃げられない、高天原の軍のやつらは、生きた人間にまで火を放ち、火だるまになるのを眺めて笑い合うのだ・・・!」

 酔いどれ男の喚き事というには、あまりにも黄太の声にはおびえの色が濃かった。櫛名田はそれに気圧されて、問うように須佐ノ男をみつめた。須佐ノ男はさびしく笑っただけだった。

「わたしは高天原を捨てたと言ったはずだ。白野の庄は出手母びとの里だと思っているし、わたしの妻の故郷でもある。妻のいるところがわたしの大切な故郷だ。それに、わたしのものでないものを、どうして天照に奉ることができるだろう」

 人々はしんと静まり返り、酒の満たされた土器をあおる手も止めて須佐ノ男をみつめていた。あるいは、須佐ノ男の顔がみれずにうつむいている者もあった。八耳が須佐ノ男のことばの終わるのを待たないで、早口に言った。

「須佐ノ男、黄太を許してやってはくれまいか。あの男は幼い頃に高天原に故郷をほろぼされ、着の身着のままで掛矢に逃れてきたのだ。その恐ろしさが身に染み付いていたがために、あのようなことを・・・」

 八耳はいちど言葉をきり、くちびるを湿らせてからつづけた。

「須佐ノ男、あの男の無礼をどうか許してくださらないか」

 しごく丁寧に八耳は言った。まるで高天原の貴人に許しをこうように。すると須佐ノ男はさびしく笑い、首を横にゆるく振った。

「おまえはこんなささいなことで怒るわたしだとでもおもっているのか、八耳。・・・できることならば、無礼などという言葉をおまえの口から聞きたくはなかった」

 八耳は、はっとして須佐ノ男を見た。須佐ノ男は黄太の罵りなどより、八耳の態度にひどい失望を感じていたのだ。八耳は須佐ノ男の頼りない笑い顔を見てはじめてそれに気づいたが、もう遅いのだった。八耳はなかば無意識のうちに、須佐ノ男を高天原の貴人として突き放してしまったのだ。同胞びとではなく、あきらかなよそ者として。

「居心地がいいぶん、どうやら長居をしすぎてしまったようだ」

 須佐ノ男はそう言ったきり、押し黙った。
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りえ

Author:りえ
基礎絵本セラピスト®
妖怪博士(中級)
漢方養生指導士(初級)

養生とは、生命を養うこと。
健康を保ち、その増進につとめること。

絵本セラピーで心をほぐし、ときに妖怪でほんわかし。
漢方の考え方で身体をやしなっていきます。

無理しない、頑張らない「養生」日記です。

古代日本好き。


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