山の神2

2011.09.14.Wed.20:53
それは、水をかくのにどこかにていた。
 重たい一足を踏み出すと、周りの景色が吹き流されるように過ぎ去っていく。息苦しさとめまいを感じて目を閉じた科戸王は、肩をたたかれて顔を上げた。
「酔ったか」
 平気な顔をしている稚羽矢を、内心舌を巻く思いで眺めながら、王はこみ上げてきた苦い唾を飲み込んだ。なんとか地にひざを突かずにすんだのは、対抗心のためだ。
「そなたは・・・・・・何ともないのか」
 ついさっきまで宮の内庭にいたというのに、まばたきを何度もしないうちに、うっそうとした森の中に立っていたのだ。
(これが御統の力か)
 体がおそれで震えた。何という代物なのだろう。人知など軽く超越したすさまじい力の源が、本当に目の前に存在するのだ。
「わたしはいくらか慣れた」
 すました顔つきで稚羽矢は言った。
「闇の宝がもつのは、身をむしばむたぐいの力ではない。身につけていると、わかるのだ。やさしい、水脈のながれがいつも聞こえている。すべての生き物とつながっていると感じられる」
「せいぜい和されることだ」
 つめたく王は返した。輝の末子が闇をいとおしげに語ることに、かすかな怒りがわいたのだった。
「くれぐれも、大蛇が目覚めぬようにな」
 森の道に王はおぼえがあった。たしかに狭也を迎えに来たときに通った道だ。近くに川の流れる音が聞こえる。少し先を歩きながら、稚羽矢はつぶやくように言った。
「大丈夫だ。狭也がいる」
 稚羽矢の口からその名を聞くたびに、言いしれぬ不快を感じる。王は眉をひそめた。
 狭也と稚羽矢が並び立つのを仕方ないことと納得したはずなのに、心底では忌々しく思っている。
 飛び石の渡しにさしかかると、王は狭也を初めて見たときのことをまざまざと思い出した。水を蹴りたてて駆けてきた娘が水の乙女と聞いて、感じたのは失望だった。
(あの人が水の乙女でなければ)
 あるいは、自分が岩姫ほどの賢い老者であったなら。
 輝に復讐を誓ったこの心は、岩のようにかたくなで、ほぐれることなどついぞなかった。そんな堅物ぶりを鳥彦に笑われることにも慣れていたというのに。いつのまにか、陣中で短い休息をとる時などに、狭也の姿を知らぬうちに思い出していることに気づいた。
 失望は、我が身に対してのものだ。一人の娘の笑顔、差し伸べる手、泣き顔。それらに向き合う覚悟すら持てず、なのに嫉妬にやかれて、たやすく平らかな心をうしなう。そんな自分へのあわれみや怒りと付き合うのは思った以上に疲れることだった。いっそ、情けなど捨ててしまえればいいと思うほどに。
 王は気を紛らわそうと、歩きながら里を見回した。夜が明けたばかりの里内は静まり返っていて、人影もみえない。
「好きか」
 稚羽矢はまじめな顔でこちらを見ていた。王は顔を背けた。
「何を言う」
「好きかと聞いているのだ」
「・・・・・・そなたに言うことではない」
「きらいなのか」
 なぜ、こう苛立ちをかきたてるのだ。王はうなるように言った。
「うるさい。嫌いではないと言ったらどうする」
 稚羽矢はおどろいたように目をみはった。
「好きなら仕方ない」
 王は声をなくして、稚羽矢をみつめた。
(なんだ、こやつはおかしくなったのか?)
「惜しいが、そなたにゆずろう」
 静かな面を王はきつくにらみつけた。
「二言はないな」
「ああ。ない」
 稚羽矢はうなずいた。
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