蜘蛛の糸

2011.09.12.Mon.01:20
 通り雨が去ったあとには、思いがけないものをみつけるときがある。雲間からさした光が、ぴかりと何かを輝かせて、庭を眺めていた狭也の目をひいたのだった。低い庭木の枝にひっかかったようにしてあったのは、蜘蛛の巣だ。
 座したひざのうえに寝ころんだ夫の髪を指ですくと、狭也はささやくようにたずねた。
「蜘蛛の夢をみたことがある?」
 稚羽矢は眠そうに、くぐもった声で、うんと言った。
「腹がすいていた、いつも。待つだけというのもつらい」
 稚羽矢は、あくびをした。
「あの巣にはしばらくなにもかかっていないみたいだ」
 蜘蛛のかけたうつくしい網は、どこにもほつれが見あたらない。
「あなたときたら、豊芦原のありとあらゆる生き物になりかわったことがあるの?」
 稚羽矢は驚いたように狭也をみつめた。
「そんなことはない。わたしが知るのは、ほんのわずかだ。時々、もっと夢を見ておけばよかったと思うときがある」
「後悔しているの?」
「どうかな」
 ほほえみながら稚羽矢は言った。
「今思うと、わたしはあなたにたたき起こされて、うつつに引きずり出されたんだ」
 体をおこして、稚羽矢は狭也をまっすぐに見つめた。
「でも、夢見たままでは何かを得る喜びを知ることもなかった。あなたが教えてくれたんだよ、今をいきるということを。だからこそ、夢見ていたときを懐かしむこともできるんだろう」
 狭也は気恥ずかしくなって、顔を背けた。
「さあ、雨はやんだわ。昼寝もおしまい」
「もう? 蜘蛛の狩りの仕方をあなたに教えてあげる」
 頬に手をそえられ、狭也は息が止まるような心地がした。稚羽矢のまなざしは笑んではいたが、どこか油断ならない熱をはらんでいる。
「蜘蛛は巣にかかった獲物をじっとみている。絹よりも細くてやわらかな糸は体にまとわりついて、獲物が動くごとにその自由を奪う」
 狭也の手の甲から、腕と肩、頬と唇をかすめるように指先でなで上げると、稚羽矢は顔を近づけて鼻と鼻が触れ合うくらいの近さでじっと狭也をみつめた。
「獲物は、いつしか動かなくなる。そして、糸をわたってやってくるおそろしい気配に気づく。最後のちからをふりしぼって、逃れようとする」
 狭也は息をのんだ。まるで自分が捕らわれた虫になったような気分だった。稚羽矢の胸を押そうとして、手をつかまれた。そのまま腕の中に抱きしめられ、首筋に歯を当てられると、狭也は必死で身をよじった。
「蜘蛛は毒を獲物にそそいで、眠らせる。そして、溶かして食べてしまうんだ」
 稚羽矢は目元に涙をにじませた狭也をみると、困ったように唇を曲げた。
「・・・・・・こわかった?」
 狭也は鳥肌をたてたまま、稚羽矢をにらんだ。のんきな夫の胸ぐらをつかんでひきよせると、狭也はかみつくように口づけをした。
「おかえしよ」
 せいせいした気持ちで稚羽矢を見たが、どうやらちいさな反抗は狭也の分を悪くしただけらしい。おし黙った稚羽矢は、ややしてため息をはいた。
「人をたきつけるあらがいというのは、こういうことか」
 稚羽矢はどこか怒ったように低い声で言った。
「困ったな」
 なにが、と聞き返してはいけないような声だ。
「これは、よくないことだろうか。目が覚めているのに、わたしは蜘蛛の夢をみているみたいだ」
 狭也が獲物なのは間違いなさそうだ。
 胸が鳴った。
 こんな美しい蜘蛛がいるのなら、捕らわれても本望だ。まなざしひとつで、分別などをどこか遠いところへ吹き飛ばしてしまう。腕のなかで溶けて、消えてしまってもかまわないとさえ思える。
 この人の空腹が癒えるのであれば、喜んで身をさしだし、後悔などいっぺんもしないだろう。
「昼寝をしよう。まだ時はあるよ」
(毒だわ。この人のまなざしは)
 銀の糸は虫にとっては死出のしとね。その上に横たえられて、動きさえ封じられて、むさぼられるのだ。それはあまりにうつくしく、おそろしい想像だ。胸が痛くなるくらいの高鳴りに、狭也はあえいだ。
「さあ」
 稚羽矢はやわらかくほどけるように笑った。
「おいで」
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