険しき山も

2011.09.08.Thu.23:06
  日が昇り、大路が騒がしくなったころを見計らって稚羽矢と科戸王は門前へと向かった。稚羽矢は垂れ布のついた笠をかぶり、あか抜けすぎない娘らしい衣を着込んでいた。王はその供といった役どころで、まったく怪しまれることなく内門へと入り込むことができた。
 采女は本来、豪族の娘がつとめるものだ。しかし、宮の現状では、そうも言ってはいられないのだろう。
 大勢の娘たちのおしゃべりは鳥のさえずりのようで、稚羽矢はここへきて一息つくと、笠をとり、髪をなおした。胸をおしてみる。傷はまだ痛むが、動くのにさわりがあるほどではない。
「あなた、どこからいらしたの?」
 ふいに話しかけられて、稚羽矢は振り向いた。旅姿の娘が足をのばしているところだった。娘は稚羽矢を見ると、驚いたように頬を染めた。
「まあ、ほんとうにきれいな方ね」
 稚羽矢はかすかに笑った。
「ありがとう。わたくしは、山の向こうからきたのよ」
 娘は吹き出した。
「まほろばは山に囲まれているのよ。ここにいる人たちは、みんな山を一つか二つは越えているでしょうよ」



 晦の大祓いまで、あと数日だ。
 照日方の采女になった稚羽矢は、おしゃべりに興じる娘たちの声を聞きながら、雪の降る庭の様子を眺めていた。準備はおおかた整い、あとは祓いの日を待つばかりとなった。大がかりな式典を迎える高ぶりにか、声を大きくした娘たちは、采女にあるまじき大きな声で笑い声をあげ、古参にたしなめられていた。
 雪がいっそう強く降り始めた。狭也はどうしているだろう。いっそ、風になりかわれたらいい。あのひとのもとへ吹いていって、その身をあたたかな息吹で包んでやりたい。何もできない、たた待つだけのこのときが、口惜しいのだった。
 与えられた部屋にもどり、床をのべていると、足音がした。ともに潜入した仲間かと思い背筋を伸ばした稚羽矢は、采女の裳裾が見えたのでふっと息を吐いた。
「ねえ、今日こそ聞くけれど、恋しい人はいる?」
 突然そう問われて、稚羽矢はまばたきをした。
 名前はしらない。しかし、同室で寝床も近かったせいもあり、この数日とりとめもないことをよく話した。とはいえ、ほとんど稚羽矢は聞き役だったのだが。
「わからない」
 稚羽矢は正直に言った。
「恋って、その人のことを呼ばずにはいられない気持ちのことよ」
「呼ぶ?」
 娘は意味ありげにほほえんだ。
「そうよ。わたしは、あなたの秘密をしっているの」
 稚羽矢はほほえんだ。
「あら、采女としておつかえするときに、隠し事などいっさいありませんと、照日の御方様にお誓い申し上げたのよ。疑うの?」
 まさか気づかれたのかと、内心ひやりとしながら稚羽矢は娘をみつめた。
「あなたのいい人のことよ。この間、あなた、西の廊でだれかと会っていたでしょう。今朝、裏へお使いにいったとき、その人が笛を吹いているのを見たわ。物静かな、鋭い目の人よ。心を打つような音色だったわ。きっと、あなたを思って吹いていたんだと思う。きっとそうよ」
「・・・・・・?」
 稚羽矢が西の廊で誰かと会ったとすれば、楽人に扮した科戸王だ。
「あなた、恋をしているのでしょう」
 稚羽矢は、唇で、こい、とつぶやいた。思い当たることがあって、にこっと笑った。
「こいは、ええ、すばらしいわね」
 鯉の夢を見たときのことを、稚羽矢はなつかしく思いだした。鏡の池で狭也と出会った晩のことを、何度思い出しただろう。のびやかに、楽しげに泳ぐ狭也をみつけたときの驚きと、おかしさと、奇妙なおそれ。見いだしてはならないものを暴いてしまったような、そんなおそろしさに胸の太鼓が鳴ったのだ。
「やっぱりね。あの人も、どこか思い詰めたような目をしていたもの。ねえ、もう歌は交わしたの?」
 鯉は鳥のようには歌わないものだ。
 稚羽矢は首をかしげた。歌といえば、狭也が教えてくれたのをかすかに覚えている。
「妹と、登れば・・・・・・え、と」
「険しくもあらず」
 ふと低い声が響いた。いらついた、とがった声だ。
「険しき山も、共に越ゆれば空むしろかも」
 楽人の衣装はじつに典雅にみえるものだが、着込んだ人は衣にも覆い隠せない剣呑さをあらわにして、稚羽矢をにらみつけていた。
 娘は口元をおさえ、悲鳴を飲み込んだようだった。
「あら、ここはわたくしたちの寝所。部内であろうとなかろうと、殿方は容易に立ち入れぬ場所ですわよ」
 稚羽矢は科戸王をたしなめた。予断を許さぬ動きでもあったか。そうでなければ、慎重な王がこうまで無防備に姿を現すはずがない。
「そなたが会いに来ぬから、手間が増える」
 厳しい声で王は言った。
「失礼」
 王は娘に軽く会釈をすると、大股に稚羽矢に近づき、身を屈めた。手にした扇で稚羽矢のあごをついと上げると、顔を傾けて耳元でささやいた。
「狭也は無事だ。この上、見破られるなよ。娘は勘が働くものだからな」
 科戸王は稚羽矢の手をとり、何かを握り込ませた。すばやく立ち去るまぎわ、王は娘に頭を下げた。手の中には、狭也の勾玉があった。これを届けようとしたのか。
「この男を哀れと思し召してください。どうか、ご内密に。どうか」
 そういう顔つきは不敵で、どうもうさんくさい。娘はといえば、頬をそめて、目を潤ませて稚羽矢をみつめた。
「ええ、ええ。誰にも言いませんとも」


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