潜入前夜

2011.09.08.Thu.20:52

  宮へと続く大路のすぐそばにある崩れかけた屋形は、よい隠れ家だった。行き交う人々の姿がつぶさに見え、異変があればすぐに気づくことができる。
 日は沈み、ほどなくして足音もさせずに八尋が戸口から顔を見せた。
「すべて、はからいどおりに」
 一言を告げて、闇に溶けるように去っていった。宮への潜入を明日に控え、手はずはようやく整った。あとは夜明けを待つばかりだ。
 科戸王は、すりきれた敷物の上で体を丸めて眠る稚羽矢に一瞥をくれた。稚羽矢は癒えぬ傷をかかえて、弱音も吐かずについてきた。ここへ着いたとたん、倒れるように眠りにおちたのだった。
 青ざめた寝顔は見ているだけでうっとうしく、腹が立つ。
 懐にしのばせた短刀を取り出し逆手に握り、王は刃を稚羽矢の首に当てた。
(これがいなければ、狭也をみすみす奪われることもなかった)
 あのとき、やはり狭也を何としてでも行かせるのではなかった。
 歯噛みをしても、もう遅い。思いは繰り返し繰り返し、あの時にかえっていく。稚羽矢を探しに行くと、迷いのない瞳で言い張った狭也を、どのようにして止めればいいのかわからなかった。怒りと惑いを、荒げた声とともに、あの人にぶつけることしかできなかった。
「そなたは、いったい稚羽矢をどう見ているのだ。あの輝の者を。あの異形の大蛇を。たしかに稚羽矢をわれわれのもとへつれてきたのはそなただが、身をすててまで再びつれもどそうとする執心はなんのためだ。そなたの態度はまるで、恋人のあとを追う娘だぞ。まわりがまったく見えていないのだ」
 ああ言った後、狭也はひどく驚いたように目を丸くしていた。
 ひきよせあう絆があるなどと、決して信じない。
 狭也が剣の巫女だと言うのなら、剣を折り砕き、二度とこの世に現れ出ないよう、深い海の底にでも沈めてやる。さだめがこの大蛇とともにあるというのなら、百にでも八百にでも切り刻み、火の山にくべてやる。
(くそ)
 狭也が連れ去られたとき、輝を憎むよりも、その怒りは思いがけず、自分に返ってきた。この苦しさは、輝の血で埋め合わせることができるのか。なら、迷いなく自分は稚羽矢を今ここで殺すだろう。
「どうした」
 ふと、くぐもったような声が聞こえた。王は刃を握りなおした。
「やるなら、やれ」
 稚羽矢は静かな横顔をしていた。科戸王は舌打ちをすると短刀をおろした。
「今はきさまを切り刻んでいるひまはない」
 身を起こした稚羽矢は、かすかに笑った。
「わたしも、本望をはたすまでは、切り刻まれるつもりはない」
「本望とはなんだ」
「狭也を取り戻す。わたしのもとに」
 科戸王は押し殺した声で言った。
「きさまと狭也は同じ時のなかにいることは許されん。かなったとして、ほんの一時だ。狭也は女神のもとに行く。きさまは永久にどこへもたどり着けぬままだ」
 稚羽矢のまなざしに、かすかに怒りの色がともった。
「わたしは狭也と同じ時のなかにいる。そのあとのことは、今はどうでもいい。そのときに考える」
 胸をつかれたような気がして、科戸王は言葉をうしなった。輝の御子が、今を知っているとは。思いがけないことだった。
「見張りをかわろう」
 言いだした稚羽矢を、王はにらみつけた。
「寝ていろ。そんな魍魎のような面で采女に選ばれるなら、わたしが衣裳を身につけたほうがまだましだ」

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