さざなみの子守歌

2013.04.01.Mon.13:20
 おいで、おいで、わたしのそばに
 おまえを包もう、あたたかなこの腕で
 ねむれ ねむれ、かわいい子

 波音が聞こえたような気がした。
 よく通るすんだ声と、折り重なるように響くさざなみの音は、現実のものではない。ここには、海はない。あの子も、いないのだ。

 寒気が背筋をはいあがり、鹿矢は我が身をぎゅっと抱きしめた。体のしんまで凍えそうだ。冷たい川の流れに腰までつかり、青ざめた唇を震わせながら、鹿矢はため息をころした。みそぎをして、けがれを落とす。今日は特別な日だ。
 吐きだす息は白い。
 生まれ育った故郷を離れ、鹿矢は十五歳になった年に都に召された。ここは比留女という女王の支配する国だ。
 高床の御殿は故郷のそれとは比べることもできないほど立派だ。長い長い階と、天にまで届きそうなほどの高みにある神殿は、日の光のもとまぶしく輝いて、夢にまであらわれたほどだった。
 立派すぎて、どうも身の置き所がない。ここへ来て半年も経とうというのに、鹿矢はなじむことができずにいた。
 故郷の浦辺の邑が恋しい。
 同じ年頃の娘たちがともに寝起きしているが、親しく言葉を交わすことは禁じられていた。年かさの女官が目付役としてそばにいて、つねに目を光らせているのだ。
 とらわれた鳥かなにかになった気分だ。自由に歌えもしないし、羽をのばすこともできない。
 息のつまりそうな日々を忘れることができるのは、豊与を思い出すときだけだった。
 一緒に浜で転げ回って遊んだこと、手をつないでどこまでも駆けたこと。海と空がぶつかるところを、目をこらして見つめ続けた日のこと。
 思いをはせるたびに記憶は鮮やかさをまし、あの子のかすかな息づかいや、笑い声までも、まざまざと胸のうちに描き出すことができた。
(豊与)
 声には出さず、鹿矢は宝物のようにその名をつぶやいた。

 豊与は、海をこえて外つ国からやってきた。
 肌を日ざしに焼かれた屈強の船人たちに守られるように、彼女は立っていた。肩までの黒髪が潮風にゆれ、あおざめた白い肌がきわだってみえた。
 鹿矢は一目見て、豊与をすっかり気に入ってしまった。きょうだいたちが気を引こうとしても、いっこうになびかないところもよかった。
 海を眺めていることが多かった彼女のそばで、鹿矢は同じようにものも言わず海を見つめていた。
 鹿矢にとって海は、豊かな実りを与えるとともに人の命を奪いもする、荒ぶる神の領域だった。
 けれど、豊与とともに眺め続けているうちに、海にもいろいろな表情があることに気づいたのだ。
明け方は、もやで沖がかすんでみえることがある。夕方、すみれ色に空が染まるとき。よく砧で打ってつやを出した、紫の薄い布を何十にも重ねたように、海はかがやく。
 ないだ海を眺めていると心が落ち着く。それは、豊与とともにいてわかったことだ。
 豊与は歌もうまかった。
 彼女が「おいで」と歌うと、人々はたちまち聞きほれた。荒れた海は鎮まり、やさしいさざなみを寄せる。暴れまわる風は、歌をかき消さぬよう、そよ風に変わる。皆はそうおだてて、豊与に歌をせがんだ。けれど、誰かに求められて歌うことは一度もなかったのだ。
「かえりたい」
 豊与がそうつぶやいたとき、鹿矢はとても驚いて、思わず声を上げたものだった。
「しゃべった!」
 歌うときのほか、豊与はしゃべらないものと思いこんでいたのだ。
「ねえ、どこへかえるの?」
 豊与はじっと鹿矢をみつめた。今はじめて鹿矢のことに気づいた風だった。
 豊与の瞳は、ずいぶん明るい茶色をしていた。みがかれた琥珀のようだ。
みつめられるとなんとなく居心地が悪くなって、鹿矢は手にしていた枯れ枝を遠くへ投げ捨てた。
「どこに、かえりたいの」
もう一度聞くと、豊与はつぶやいた。
「この海のむこう」
「来たばかりでしょう」
「・・・・・・来たくはなかった」
 鹿矢は立ち上がり、衣についた砂をぱっぱと払った。手を差し出すと、豊与はそっぽをむいた。鹿矢はすうっと息を吸い込むと、大声を上げた。
「うみへび!」
 すましている豊与が、悲鳴をあげて飛び上がったのはおかしかった。振り払うように上げた手を、鹿矢は力をこめて思いきり引っ張った。つんのめった豊与は、鹿矢にぶつかって一緒に砂の上にたおれこんだ。
「なにする」
 砂をぺっと吐き出しながら、豊与は口元をぬぐった。
「ばかね、うみへびが浜にいるもんか」
 砂まみれになった二人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出した。はじめてだ。はじめて、豊与が声を上げて笑うところを見た。うれしくて、鹿矢の胸ははずんだ。唇から白い歯がこぼれるのが、真珠を連ねたようで、きれいだと思った。
「あたしは鹿矢」
「鹿矢?」
 うれしい思いで、鹿矢は何度もうなずいた。しろい手を引いて、走り出す。松の小枝を踏みながら、ときに飛び越えながら。おなかのそこがくすぐったくて、笑わずにはいられなかった。
「まって、鹿矢!」
 息をはずませた豊与が、叫ぶように名を呼ぶ。夕暮れの林に、軽やかな足音がひびいた。

「心を込めてお仕えするのですよ」
 冷たく尖った声が響き、鹿矢ははっとした。
 年かさの女官長は、薄い唇を開いた。
「宮の女官とは一線をかくすのです。そのことをゆめゆめわすれてはなりません。身を捨て、心を捧げ、しっかりとさいごの時までお仕えするのです」
 すっかり聞き飽きてしまった。次に何を言うかもそらで言えるほどだ。
「いかなるときも、取り乱さず、粛々と仕事をまっとうすること」
 見知った人がいなくなり、新顔がいつの間にか隣に座っていたりする。入れ替わりはめまぐるしいといってもよく、いなくなった人たちがどこへ行ったのかも、鹿矢たちに明かされることはなかった。
(帰ったのだろうか、故郷に・・・・・・)
 故郷といえば、のこしてきた病気の母が気にかかる。
 母は、奴卑だ。浦辺の首長が戯れに母に手をつけ、鹿矢を生ませた。胸の病に悩まされるようになっても、仕事は減らず容赦もない。
 鹿矢がここへきたのは、母のためといってよかった。神殿の女官になれば、支度のために一山の財が与えられる。「おまえがゆくなら、母を世話する者をそばにつけよう」そう父は鹿矢に約束したのだ。

 神殿の長い階を降りてくる人の姿を、鹿矢は目を凝らしてみつめた。遠目にもその清げなありさまをのぞむことができた。まっさらに白い上衣に、朱の長い裳を引きずり、青あおとした榊を胸に抱くようにして降りてくる。解いたままの髪はすんなりと長く、腰まで届いていた。
 女王は長い間、この国を統治してきたという。なのに立ち姿は若々しく、背はすらりと伸びている。
(あれは)
 いつもは、ちらと姿を見せるだけなのに、今日はちがっていた。階の最後の一段を降りたその人は、顔を上げて居並ぶ女官たちを見渡したのだった。そして、かすかに唇をほほえませた。
(まさか)
 胸が急にはやく鳴り出した。
 あの子の顔を、忘れたことなどない。
 目を伏せ、かるく唇をかみしめるのは豊与のくせだった。どこを見るともなく視線をさまよわせるのも、頬にかかる髪をうるさげに払うしぐさも。
「豊与さまよ」
 だれがささやいたのだろう。胸がきしむように痛んだ。
(豊与)
 小声で言い交わすのが耳に届いた。
「比留女さまはどうなさったの」
「おかげんがお悪いのですって。儀式が滞っていたのもそのせいでしょう」
「はやく豊与さまに御座をお譲りになられたらよろしいのにね。もうずいぶんお疲れのようだし」
「ほれぼれするわ、豊与さまのお姿」
 目付役の咳払いが響いた。娘たちはつんと顔を上げ、たちまち押し黙った。
 まばたきするのも惜しくて目で追っていると、「豊与さま」はきゅうに立ち止まり、鹿矢のいるほうを向いた。
 かすかに笑んだ口元と、細められた目。
 息が止まりそうになった。
 きゅ、とすぼめられた赤い唇が、声もなく「か、や」と動いた。ただの気のせいなのか、それとも。

 その日、空は青く、雲ひとつなかった。
 夏草がうるさいくらいに茂って、風に揺られてなびいていた。ひざをかすめる青草の感触がくすぐったい。
 崖の上の野原にはだれもいない。豊与と鹿矢、二人のほかには。
「島が見える?」
 豊与はすぐには答えずに、髪をなびかせながら海の向こうに目をこらしていた。
「見える。泳いでいけそうだね」
 鹿矢は吹き出した。浦辺で一番泳ぎの上手な者でも、あそこまではとうてい無理だろう。それに、どんなに誘っても海に入ろうとはしない人が、泳いでいけそうだなんて真顔で言うのがおかしかったのだ。
 ちいさく鹿矢は声を上げた。草をつもうとしたときに、指先を切ってしまったのだ。豊与がかけ寄ってきた。
「大丈夫?」
 ほんのかすり傷だ。心配そうに見つめられると、痛さがかえってしみるようだ。
 豊与はそっと鹿矢の手を取り、血のにじんだ指先を口にふくんでやさしくなめた。母が子にするような、きょうだいが妹にするようなことだ。鹿矢は何も言えずに、ぼうっと突っ立っていた。すぐに血は止まった。
「平気か」
 豊与の顔が近くにある。白い頬と、すっと通った鼻筋。大きくなったら、どれだけの美人になるだろう。
 素性はわからないが、豊与は高貴な人にちがいない。首長の館で客人としてもてなされ、皆は「姫さま」と呼んでひれ伏しかねないほどだ。
 そんな人が、鹿矢をまるで妹のように扱ってくれる。
 ・・・・・・大きくなったなら。
 そうしたら、豊与の侍女にしてもらおう。やさしくて、うつくしい豊与のそばにいられるのなら、何もこわいものなどない。
「ずっと一緒にいられたらいいのに」
 豊与は笑った。大人たちにみせるような、一歩引いたような笑い顔だ。鹿矢はもどかしくて、傷のことも忘れ、豊与の手をぎゅっとにぎりしめたのだった。

 別れは突然だった。
 ある秋の日、野分が去るのと一緒に、彼女は遠くへ行ってしまった。
 さよならも言えなかった。
 ひとり夕暮れの浜にでた鹿矢は、何度も何度もくりかえし歌った。
 外つ国の歌、豊与ののこした歌を。口ずさむと、豊与がすぐそばにいるような気がした。

 「豊与さま」が、鹿矢の大切な豊与によく似ていたから。そんな理由で禁をおかすようなまねをして、見咎められたらただではすむまい。けれど、どうしても確かめなくては気がすまなかった。 
 同室の人を起こさないよう寝床を抜け出した鹿矢は、そうっと廊下に出た。頭から襲着を引きかぶり、衣のすそを持ち上げて冷えた板廊を踏みしめていく。
 廊の柱のかげに隠れ、なんとか見回りをやりすごす。奥に進むごとに、いっそう闇が濃くなるようだ。
女王の居室は左殿の最奥だ。明かりの漏れる室の入り口のまえで立ち止まる。歌が聞こえたのだ。鹿矢は、はっとして息をのんだ。外つ国のことばだ。
ふと、歌がやんだ。
「・・・・・・お入り」
 低い声が響いた。
 鹿矢は引きかぶっていた襲着をぬいだ。手がふるえている。歯の根があわないのは、寒さのせいか、それとも、禁を破っているおそれのせいか。鹿矢は、ほのあかるい室へと足を踏み入れた。

 広い室には調度のたぐいが一切なかった。板敷きの中央に床をのべ、横たわった人がいる。寝息をたてているようだ。
 灯台の明かりが、風もないのにちらちらと揺れた。しわが深く刻まれた、浅黒い小さな顔が布団からのぞいている。そのかたわらに女人が座していた。鹿矢を招いたのは、この人だ。
 つややかな黒髪が背に流れている。衣は飾り気のないもので、女官のそれより質素かもしれなかった。声を潜めてその人は言った。
「お眠りになったところだ」
 鹿矢は待った。その人が振り返り、目と目が合うそのときを。見交わせば、きっとわかるはずだ。
「そなた」
 視線が鹿矢を射抜いた。「豊与さま」は声をなくした。
「豊与・・・・・・」
 目頭が熱くなる。声をつまらせ、そう言いかけた鹿矢は、きゅうに手をつかまれ、乱暴に引き寄せられた。細身のどこにあろうかという、あらがいがたい力だった。
 あっという間に鹿矢は布団のなかに押し込まれてしまった。
「静かに」
 そうささやく声にかぶさるように、廊を歩いてくる足音と女官の声がした。
「御方、参りました」
「下がりなさい。今宵の伽は、豊与がする」
「ですが・・・・・・」
「比留女さまがそうお望みなのだ」
 湿ったしとねの中、枯れ枝のように細い足に手が触れた。鹿矢は、はっとして両手を胸の前に引っ込めた。
 白髪を波のように枕べに広げ、しわだらけの肌をさらした、老いた女。女王の住まう宮の最奥にいて、豊与が伽をするほどの人となれば、誰かはあきらかだ。
(比留女さま。女王さまなの)
 国を栄えさせてきた女王が、これほどまでに老いていたとは。
 女王は戦つづきの国を見事におさめた。すぐれた巫女王は希有な霊力をもち、その容姿はどれだけ年を重ねようと、若かりし頃のまま衰えない。人々はくちぐちに言い交わし、天を照らす女王と呼んであがめた。
 しかし、こうして寝床に横たわる人は、死からそう遠いところにいるようにも見えなかった。
「もういい。出ておいで」
 布団をそっとめくり、這い出てきた鹿矢と向かい合った豊与は、居心地が悪そうに言いよどんだ。
「やはり、あなただったんだね」
 眉根を寄せ、豊与は深くため息をついた。
「わたしがまぼろしを見たのならいいと、そう思っていた」
 会いたいと願っていたのは、鹿矢のほうだけだったのだ。悲しいより腹が立って、鹿矢はまっすぐに豊与をにらみつけた。
「豊与は、薄情だね」
「みつかれば、ただではすまないのだよ」
「なぜさよならを言ってくれなかったの」
 ずっと言いたくて、言えなかったことだ。豊与は目を伏せた。
「言いたくなかった」
 それきり顔を背けてしまう。
「ここにいるとわかっていたなら、あれほど泣かずにすんだわ」
「鹿矢」
 豊与は狂おしいものを秘めた目で鹿矢をみつめた。
「わたしは、あなたの知る豊与じゃない」
「豊与は、豊与よ」
 ひるんだように豊与は唇をつぐみ、潜めた声でささやいた。
「ここはあなたのいていい場所ではない」
「あなたがいるのなら、あたしもここにいる」
 豊与は首を横に振った。
「いけない、それだけは」
「なぜ?」
 口ごもった豊与を、鹿矢はせっついた。
「きちんと話して」
 寝床に横たわる人にちらりと目をやった豊与は、息を一つ吐き出してから、静かに立ち上がった。
「・・・・・・おいで」
 差し出された手は、驚くことに鹿矢の記憶にあるのより、ずっとずっと大きかった。思わずふれるのをためらうほどの、骨ばった、かたそうな手だ。
 豊与は苦笑いをして手を引っ込め、暗い廊を先に立って歩きだした。扉をいくつかくぐり抜けると、いつのまにか、はだしの足につめたい土が触れた。細い坂道を降りてゆくと、いつしか二人は雪のふる川原に立っていた。流れる水音を聞いていると、身も凍るようだ。
 ちょうど満月が雲から顔を出し、二人を照らし出した。向かいあってみると、豊与はゆうに頭一つぶんは背高かった。
「寝ている人を見たろう」
「比留女さまなの?」
 豊与はうなずいた。
「あの人は、巫女などではない」
「比留女さまは、日を隠すこともお出来になるのでしょう?」
 かつて国が乱れていた頃。わずかな軍を率い、敵の矢も届こうという小高い丘に身をさらした女王は、昼を夜にしてみせた。それを見た人々は矛を下げ弓をおろし、服従を誓ったのだ。
「日は昇れば沈む。夜は必ず明ける。いつ日が隠れるか、知っていたとしたら?」
 鹿矢は身震いをした。
「そんなことが、わかるわけないわ」
 豊与は鹿矢の手をきつく握りしめた。
「知恵は力だ。戦つづきのこの国を、平らげるには畏怖される力がいる。招かれたのが、おばの比留女だ。わたしの一族は、星を読み、地に流れる脈を読むことができる」
 川原が雪に白く染まっている。豊与のほほに、ひとひらの雪が落ちて滴になった。
「おばの知識には、大事なものが欠けていた」
 差し出した豊与の手のひらに降り落ちた雪は、すぐに溶けて消えていく。
「一族の後継の男子のみに伝えられる、暦の知識だ。日がいつ隠れるか、星がどのように動くか。これは政にかかわる重要な秘密だ。父はきっと、他国へ行く姉へ餞別を持たせたつもりだったのだろうね。けれど、〝奇跡〟  は、一度では足りなかった」
 ひれ伏した人々の前で、比留女はなにを思ったのだろう。
「わたしをさらうようにこの国へ連れてこさせたのだ。足りない知識のすべてが与えられていると知っていたから」
 豊与は顔をゆがめた。
「館が焼き払われるところを見た。炎が空をこがしているのも、はっきりと見たんだ。父も母もきょうだいたちも、どうなったか・・・・・・」
 涙をこぼす人を、鹿矢は抱きしめた。
 抱きしめたはずなのに、腕が回りきらない。豊与の肩に顔をすっぽりうずめた鹿矢は、親鳥の羽に抱え込まれるように抱擁されたことに動転して、体をかたくした。
「豊与。豊与?」
 信じられないが、豊与は、男だ。
 きつく抱きしめられて、息が止まりそうだ。身動きしても、かたい腕はびくともしない。
「わたしが、いつ女だと言った」
 あわてる鹿矢をよそに、平然と豊与は言った。
「だって・・・・・・豊与は女の名だし。姫と呼ばれていたじゃない」
「男が王になると国が乱れるという。わたしは豊与という娘に仕立てあげられた。男の姿など、もう何年もしていない」
 鼻先がふれあいそうなほど間近で、豊与は鹿矢をじっとみつめた。
「がっかりした?」
 顔が熱くなる。正直を言って、なんと言ったらいいのかわからなかった。
「まあいい」
豊与は唇をゆがめた。
「あなたの命は危険にさらされているんだ。このままでは、明日には・・・・・・」
 鹿矢はごくりと息をのんだ。
「あす、日が隠れる。比留女のかわりに、わたしが新たな女王となる。神に捧げる供物として、あなたは選ばれたんだよ」
 鹿矢はきつく抱きしめられた。
「お逃げ。あなたを死なせたくない」
 鼓動を打つ胸と胸があわさる。鹿矢はおそろしさにふるえながら、豊与の首筋に顔を寄せた。
「ずっと一緒にいたい。豊与が男でもいい」
 驚いたように豊与はまばたきをした。
「ほんとうに?」
 見つめあうだけで、こんなに息苦しい気がするのはなぜだろう。胸が鳴り、頬がほてるのは、どうしてなのだろう。
 豊与は鹿矢の顔を上向かせ、そっと口づけをした。しおからい海の味がする。唇を離したあと、豊与はほほえんだ。
「きっと、迎えに行く。だから、待っていて」

 夜明けまでにはまだ時がある。
 抜け道を通り、鹿矢は宮の外へと急いでいた。寝床にいないことを知られる前に、一足でも遠くへ行かなければならない。
 暗い道は細く、曲がりくねっている。しかし月の明かりがたしかに足下を照らしてくれた。見上げれば、雪が月を煙らせている。
 もうすぐだ。欄干を飛び越え、鹿矢は凍えた土を踏みしめて走った。景色が変わる。板葺きの質素な家が、ひしめくように立ち並んでいる所へ出た。
豊与の腹心の女官が、ここで待っているはずだ。
 数歩さきに誰かが立ちふさがった。一人ではない。「捕らえろ」 押し殺した声が響いた。
 はっとして身をひるがえすなり、強く突き飛ばされた。転んだ鹿矢の前に松明がかかげられた。
そこにいたのは、目付役だった。片ほほをゆがめ、彼女はあざけるような声音で言った。
「御方をたぶらかし、情けを得るとは。なんと卑怯で汚らわしい」
 肌があぶれるほど近くに、松明をぐいと近づけ、目付役は吐き捨てた。
「あのお方は、そなたなど足下にも寄れぬ希有なお方なのだ」
 いいざまに拳で殴られ、鹿矢ははいつくばった。目がくらむ。手をついて身を起こしたとき、なにか生あたたかなものが、手元をじっとりと濡らすのを感じた。
ゆらめく松明の炎が、ざっと足下を照らした。一面、土が血に染められていた。投げ出されたふくよかな手と、血に染まった衣・・・・・・神殿の女官がうつぶせに倒れている。鹿矢は悲鳴をあげた。
「お立ちなさい。お役目を果たすときが来ましたよ」
 切り裂くようなまなざしには、哀れみすらない。鹿矢は捧げられる供物でしかないのだ。それが今こそわかったとて、救いにもならない。

 そまつな小屋には、手を縄でくくられた娘たちが押し込められていた。川音が聞こえてくる。もしかして、みそぎをした川のそばかもしれない。
泣くものもいれば、ぐったりと身を伏せているものもいる。
 日がもっとも高いところに昇ったころ、小屋の戸が開いた。一人、また一人と娘たちが引き出されていく。
 命乞いを耳にしているうちに、かすかな望みも消えてしまった。暗い絶望にひきずりこまれてしまいそうだ。
 とうとう一人きりになった小屋の中、鹿矢は目を閉じた。体のふるえがとまらない。
やがて、小屋の戸が開く音がした。
 鹿矢が信じたいのは現実ではない。
 信じたいのは、豊与の言葉だけだ。やさしいまなざしだけだ。それだけでいい。
 海を眺めていた幼い豊与は、子守歌をくりかえし歌い続けていた。故郷からさらわれ、親きょうだいから引き離されて、理不尽な役目を押しつけられて。
「かえりたい」
 そうつぶやいた幼い声が、波音とともに耳の奥によみがえった。
 目に涙をためて、じっと海の向こうをにらんでいた横顔が、いとおしかった。
(泣かなくていい。もういい)
 海の向こうには、何があるのだろう。豊与の故郷か。それとも支配も強制もない、みしらぬ王国だろうか。
 川原には白い衣を血に染めた男たちがいる。祝いに捧げるけものを屠るように、何人かの娘たちを殺したのだ。
 鹿矢は引きずられながら、ふるえる声で歌い出した。
「おいで、おいで、わたしのそばに」
 さざ波が浜に寄せる音が、かすかに聞こえてくるような気がした。
海は、どこか遠くへつながっている。どこでもいい、逃れられるのなら。そこへ行けたらいい。豊与だけでも、できることなら。
(豊与!)
 空がへんに明るい。すべてのものの影が長く伸び、鳥のさえずりもやんだ。
(日が、消える・・・・・・)
 豊与の言ったとおりだ。
 太陽が隠れる。昼は夜に変わり、国の人々は凶事だと叫ぶだろう。
 古い女王のかわりに、新しい女王が立つ。
 豊与が神殿に現れれば、新たな太陽として、国人は彼をたたえるのだろう。
 風が吹き、あたりは大きな御手が幕をひいたように暗くなり始めた。引っ立てる男の手がゆるんだすきに、鹿矢は身を引きはがすようにいましめから逃れ、走りだした。
「鹿矢」
 呼ぶ声がする。うすやみのなか、石につまづき鹿矢は倒れこんだ。しかしすぐに起き上がり、駆けだした。
「鹿矢!」
 あの人だ。力いっぱいに、鹿矢は駆けた。
 さざなみの打ち寄せる音が聞こえる。
歌が、聞こえる。空耳ではない。
 遠い国の歌だ。
さざなみの子守歌が、いま、聞こえたのだ。
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