春がきた。
 武彦は、村のはしに流れる小川のあたりで、話し声を聞き止めた。
 川向こうの里からみやげを持たされて帰ったところだ。
 芽吹きをまつ桜の古木のかげに、あるじの姿が見える。おそらくそのそばには、ただひとりの想い人がいるのだろう。
「ごめん、遠子。機嫌を直してよ」
 まただ。謝るほどのことでもなかろうに、軽々しく頭を下げすぎる。
 地位を手放したとて、武彦にとってはまほろばの皇子であることにかわりはない。
「もうしないよ。きみを無視したわけじゃない」
「約束よ。二度としないで」
 しかりつけるような声音だ。
「あなたがどんな危険なことをしたか、胸に手を当ててよく考えてごらんなさい」
(いやはや。遠子どのは命にとって希有なお人だと、わかってはいるが)
「なぜ一声もかけていかないの。みながどんなに心配したか」
 幼い頃から共に暮らし、かの方にとっては何人にも代え難い宝でもある遠子姫。寵愛をかさにきるというのとはちがう。彼女にとっては、かの方は肉親であり、恋人なのだ。
(遠子姫といるときだけ、ふつうの若者の顔をなさる)
 命の横顔は、困り切っている。しかし、どことなくうれしそうにもみえるのだった。どんな言い合いも、睦まじくみえる。それは何よりのことだ。
 盗み聞きもあるまい。背を向けて去ろうとしたとき、ふてくされた声がひびいた。
「大げさだと思うよ、遠子は」
 命は続けて言った。
「ぼくは子どもじゃないし・・・・・・山のことはきみよりよく知っている」
 姫の言い分ならば、たいていは笑って受け入れるお方が、反論をくりだした。興味がおこり、武彦は足を止めた。
「ぼくだって、死にたくはないんだ。ただ、試したかったんだよ」
 死ぬなどとは、穏やかではない。
「ずっと苦手だなんてしめしがつかないだろ。そういつまでも隠してはいられない。ぼくが突然悲鳴を上げて泣き出したり、気を失ったりしたら、皆がどう思う。病になったか気が触れたかと大騒ぎになるよ、間違いなく」
「小倶那」
 しばしの沈黙のあと、遠子姫がちいさな声でささやいた。
「だからって、一人で探しに行くなんて、むちゃよ。あなたに何かあったら、わたし」
 衣擦れの音がした。
「心配させて、ごめん」
 枯れ枝のかげが地に落ちている。二つの人かげが一つに重なり、しばらくの間じっと動かなかった。
「悲鳴を上げても、気を失っても、それがなんだというの? それを謗るような人たちが、ここまでついてくるかしら?」
(そのとおりだ。命がなにをおそれておられるのかは思いもつかぬが)
 そばを離れられるくらいなら、とうの昔にそうしている。
「欠点のない人なんていないわ。どんなきれいな鏡だって、曇りがあるものよ。あなたが完璧に振る舞いたいのもわかるけれど・・・・・・あなたはもうあなたでしかないのよ。だれかの身代わりでもない」
「ぼくは、自信がないんだ」
 うめくような声がした。
「武彦たちを信じていないのじゃない。とんでもないよ。彼らには心から感謝している。なんて言ったらいいだろう。ぼくが、ぼくを疑っているんだ。心のどこかで、まだ自分を疎んじている。傷のない玉のように高く見積もって接してくれる武彦たちに、すきのない人物であるように見せたいんだ。・・・・・・これは、よくないことかな」
「しかたのないひとね」
 遠子姫は、なだめるように言った。
「好きよ。あなたの全部が好き。いいこと、これだけは知っていて」
 悩みも苦しみも、すべてを溶かすだろう一言だ。
 命が遠子姫を一途に愛する理由が今こそわかったような気がして、武彦はそっときびすを返した。
「あら、戻られたのね」
 小石を踏んだ音で気づかれたか、遠子姫が木のかげから顔を出した。命が決まり悪そうにこちらを見ている。目を合わせないように、武彦は咳払いをした。ずいぶん気まずい。
「今さっき、戻りました。川向こうの長どのから、そのう・・・・・・珍しい品をいただきまして」
 聞かなかったことにするべきだ。あるじが隠そうとするものを、あばいていいという法はない。
「そうか、長どのはお元気だったか」
 こころなしか命は赤い目をなさっている。まさか、泣くほど苦しんでおられたのだろうか。武彦は息をのんだ。
「精のつくという秘蔵の酒をくださったのです。こちらでは、とくに珍しいものではないようですが・・・・・・くちなわを酒につけて」
 竹筒を差し出すと、命の顔色がさっとかわった。
「く、くち・・・・・・」
「ただの蛇ではなく、毒長虫をつけ込むとは、まことにめずらかですな」
 しいて明るい声で述べると、命は腕で顔を覆い、一足二足後ずさりをした。くぼみに足を取られ、ひっくり返ったあるじに、武彦は驚きあわてて駆け寄った。
 なんたることか、気を失っている。勇猛果敢な、かつてのまほろばの将が。見えない敵に、どうと体当たりでもされたかのようだ。
「いったい、何が起こったのです」
 動転して、遠子姫を凝視するも、姫もまなこをまん丸に見開いていた。
「・・・・・・この人をおぶってくださる? 話はそれからです」
 姫は深いため息をつき、肩をおとしたのだった。
 
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りえ

Author:りえ
基礎絵本セラピスト®
妖怪博士(中級)
漢方養生指導士(初級)

養生とは、生命を養うこと。
健康を保ち、その増進につとめること。

絵本セラピーで心をほぐし、ときに妖怪でほんわかし。
漢方の考え方で身体をやしなっていきます。

無理しない、頑張らない「養生」日記です。

古代日本好き。


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