天より来たる――瑞雪――   (なかのさん)

2013.01.01.Tue.03:00


 急な寒気で狭也はぱちりと目を開けた。まどろみなど許さぬその厳しい寒さに驚いて顔を上げ、呆れる。稚羽矢が格子戸を開け放ってしまっていたのだ。
「稚羽矢、なにしてるの。寒いわよ」
「やあ狭也。雪だと思ったら、一面の霜だった」
 稚羽矢は子どものように頬を上気させ、悪びれる様子もなければ戸を閉める気配もない。狭也が嘆息すると、それは白く残った。
「あなた寒くないの」
「そういえば、少し寒い」
「あたしはとても寒いわ。早く戸を閉めてくれるとありがたいし、あなたも一枚余分に羽織ればいいと思うのだけど」
 狭也が言うと、稚羽矢は戸は開けたままで狭也の近くまで歩み寄ってきて、顔を近づけた。
「な、なによ」
「狭也が寒いのは、そんな格好だからではないのか」
 そこで狭也は上掛けを口元まで持ち上げている以外はほとんどなにも身に着けていないことに気づき、かっと頬を赤らめた。
「狭也、そんなに寒いのか」
「ちがうわ――ねえ稚羽矢。お願いだから戸を閉めてくれないかしら」
「なぜ? 霜が朝日を浴びて輝いて、とてもきれいだ」
「着替えたいからよ」
 稚羽矢が曲解しようがないほどきっぱり言うと、さすがに納得したのか彼は無言で戸を閉めた。朝から驚かされた意趣返しに背を向けて衣に袖を通していると、床に広がった髪を稚羽矢がすくい上げ、指先でくるくると遊び始めた。不まじめな態度にまた怒ろうかとも思ったが、くすぐったさが勝って忍び笑いがこぼれてしまう。
「稚羽矢、それ、楽しいの」
「うん――今日は雪になるだろうか。ずいぶん寒いし、天気も悪そうだ」
「なるかもしれないわね。あなた、雪が好きだった?」
 うん、と稚羽矢はまた素直に頷いた。
「雪はいい。美しいし、宮の子どもたちも喜ぶ」
 彼が下働きの子どもたちのことを気にかけていたのが意外で、狭也は振り向いて彼をまじまじと見つめた。ただびとと同じ時を得て、彼の中にも時間が降り積もっていた。知り合った頃よりも背は伸びたし、顔つきも随分おとなびた。
 似ているところと似ていないところ、両方見つけて、狭也は微笑んだ。
「――そうね。雪になるといいわね」

 表の音がほとんど届かない屋形の奥で、遠子を横たわらせて小倶那はふうと息をついた。酒盛りはまだ続いていたが、早々に潰れた遠子を見た七掬が早く奥へ連れて行って寝かせたほうがいいと勧めてくれたのだ。
 遠子はまだぼんやりと起きていて、七掬の言葉が聞こえたのか真っ赤な顔を上げてまだ飲める、まだ歌っていないと喚きだした。これはいかん、早くと七掬が小倶那の背を押すので、小倶那もわけがわからないながら慌てて遠子を抱き上げると宴席を抜け出した。
 廊下の冷たい空気に触れたことで酔いが若干醒め眠気だけが残ったのか、温石を入れて上掛けを頬のあたりまで被せると、遠子はすやすやと穏やかに眠りに落ちた。
 まだまだ眠たくなかった小倶那は一度表へ戻ろうかとも考えたが、遠子の顔を見ているとそんな気も失せて自身もごろりと横になった。上掛けに手をすべり込ませ遠子の指を軽く取ると、力強く握り返された。
 その強さに、なんとも形容しがたい安堵感が胸を浸し、圧倒的な幸福感が春の清水のように湧き上がった。
 目を瞑ると、余計な情報や要らぬ考えはどんどん削ぎ落とされてゆき、ただ遠子との指のつながりだけが明らかな実感を保ち続ける。
 音はほとんどなかった。じっとしていると宴席の騒ぎがかすかに聞こえてくる。それ以外に聞こえてくるのは、おのれと遠子の心臓の鼓動だけだった。
 酒のせいでほてった指先からは、どくどくと熱い鼓動が伝わってきた。はじめ異なる調子で刻まれていた二つの音は、やがて重なりあい交じり合ってひとつの音となる。そしてまた分かれ、出会い、重なり――その繰り返しだった。
「遠子」
 愛しい名を呼んでみるとそれは夜のしじまに響き渡り、それまで体中に息づいていた音をかき消した。
 なんて静かな夜だろう。きっと今晩中に雪になる。外の寒さを思い出しながら小倶那は考えた。
 静かに静かに、雪は降り積もり朝には一面を白く染めているだろう。
 遠子は雪が好きだから、きっと飛び出して行って、鼻の頭を赤くする。そして雪かきを手伝うと言ってしもやけをつくるだろうから、ゆっくりゆっくり、ぬくもりを分けてあたためてあげなければ。
 そこまで考えて小倶那はふと笑った。こんなことを考えていても、結局自分は、遠子に腕を掴まれて雪の中に引き倒される。そして雪をお互いにかけ合って、ふたりとも真っ赤に手を腫らすのだ。昔からそうだった。
 ああ、雪はいつもとても冷たいのに、雪にまつわる思い出は、どうしていつもあたたかいのだろう。雪が冷たいから、みんなとてもあたたかいのだろうか。
 それなら明日も、雪が降ればきっとあたたかくなれるだろう。
 どうか目覚めたとき美しい雪景色でありますようにと願いながら、小倶那は幸福なまどろみに身を預けた。

「阿高、今日、雪が降ったわ」
「雪?」
 季節外れの帯を丁寧に巻きながら鈴が言うので、阿高は首をひねって考えた。
「雪というほどのものは、降っていないだろう。せいぜい――」
「風花だ、と言うのでしょう。千種さんにも言われたわ」
 物を知らない娘だから教えてやろうという気持ちが強かったが、鈴の言い方で阿高は思い出した。確かに彼女は日常生活や市井のことには疎いが、人の心の機微や季節のうつろいにかけては阿高などよりよほど物を知っていた。れっきとした教育を受けた娘なのだ。
「わたくしがここへ来てからは、初めて見たの。だから、わたくしにとっては雪なのです」
 きっぱり言うのがおかしくて、阿高は少し笑った。すると鈴は不満そうな表情をする。ごめんと言って頭を撫でた。
「だが言われてみれば、今日はずいぶん冷えるな。これは雪になるかもしれない」
「ここも都と同じように雪が降るのね」
「竹芝をなんだと思っているんだ。雪なんて、どこも同じだよ」
 そう言ってからすぐに、阿高は母の夢で見た北の冬を思い出した。阿高がそれまでに見た一番の大雪よりもずっと深く降り積もっていた雪。降るときの厳しさも、根雪の硬さも、阿高が実際に知っているものと違った。
「……同じかはわからないが、まあ、雪は降る」
 急に煮え切らない返事になった阿高をあまり気にせず、ふうんと頷いて鈴は尋ねた。
「それなら、雪遊びができるかしら」
「なんだって?」
 からりと笑って少女は続ける。
「雪うさぎを作りたいの。それからかまくらも。作って遊びたいわ。それくらい積もるかしら?」
「……あのなあ」
 あくまで明るい鈴に、阿高は呆れ、再度鈴の頭に手を置いた。
「やってもいいが……それは子どものやることだ。それよりも雪が降ったらやらなくちゃいけないことがたくさんある」
「それはなに?」
「まずは雪かきだろ。それに……」
「雪かき?」
 鈴の瞳がきらきらと輝きだしたので阿高はぎょっとして身を引いた。
「雪かきを自分たちでするのね。わたくしもやりたい」
「雪かきは男衆の仕事だよ。女手は……まあ、家の中のことだな」
 具体的になにをしているのか思い浮かべられず、阿高は言葉を濁し美郷姉に聞いてやると付け足した。鈴はうんと頷いたが、どこか気のない様子なので、阿高はその顔をのぞき込んだ。
「なんだよ。やっぱり遊びたいのか。それなら鈴は特別に、小さい子に混ざって遊んでいてもいいぞ」
 少し意地悪く言うと、少女は笑顔で怒った声を出した。
「ちがうわ。阿高のいじわる」
「じゃあどうしたんだ」
 鈴は少し迷うそぶりを見せたあと、ぽつりぽつり語った。
「ほんの小さい頃は、雪が降るとたくさん遊んだの。兄上が上手な雪うさぎを作ってくれたわ。それでも大きくなるにつれてできなくなって、兄上が病がちになってからは、寒くなるともう、階の近くに寄らせてもらえなかった」
 阿高はなんと答えてよいか分からず、ただ、そうかと頷いた。鈴はそうなのよと頷いて続ける。
「だから、ここで雪が降るならいろいろ自分でやりたかったの」
 そう結んで鈴はすこしさみしげに笑った。少女が失ったものと得ようとするもの、自分がなくしたものと手に入れたものを思って、阿高は少し考えたあとちいさな白い手を取った。
「阿高?」
 慣れない水仕事で痛んではいるが、それでもこの辺りではお目にかかれない、雪のように白く柔らかい手だった。
「……こんな手で雪かきやかまくらを作ったりしたら、あっという間にしもやけで真っ赤になるぞ」
 鈴はそうかもしれないわねと答えてため息を付いた。阿高はそのため息を吹き飛ばすつもりで笑う。
「だから雪かきはおれたちに任せておいて、おまえは家の仕事をたのむ。両方終わったらかまくらを作ってやるよ。そしたらそこで、雪うさぎでもなんでも作ればいい」
 阿高の言葉に鈴は顔をほころばせ、彼の手を握り返した。
「それなら、阿高も一緒に遊んでくれるのね」
「そうだな。都にもあるかは知らないが、坂東には雪合戦という遊びがある。鈴にはさすがにさせられないが、おれと藤太がするのを見ているといい」
「楽しみだわ」
 そう答えて鈴は、こつりと額を阿高の胸に預けた。
「明日は雪が降るといいわね、阿高」
「それはいいが、雪が好きだなんて、鈴はやっぱり子どもだな」
「もう、なによ。本当にいじわるね」
 鈴は笑いながらぽかりと阿高の胸を叩くがまったく力が入っていなく、阿高はされるがままで笑い出した。
 いまにも雪片の舞い落ちそうな静かな夜に、恋人たちの笑い声だけが響いていた。

 ***


「なるほど、わたしも雪は好ましい。その願い、たしかに聞いた」


 ***

「見て、小倶那。雪よ」
 一面の銀世界に、遠子は歓声を上げた。
「まだ誰も外へ出ていないのかしら。わたし、足あとを付けてこようかしら」
 雪かきをして、雪合戦をして、かまくらを作って……と指折り雪遊びや仕事を数え上げる遠子に、小倶那は思わず吹き出した。前夜思い描いた遠子の様子と寸分違わなかったからだ。
「なによ、小倶那」
 遠子が階からこちらを見て尋ねる。小倶那はなんでもないと首を振ったが、遠子は納得していない様子だった。短い間考えるような顔をしたあと、不意に意地悪くにやりと笑って、廊下に吹き溜まった雪を掴み取る。
「遠子――だめだよ。せめて着替えてから」
「着替える前のほうが都合がいいでしょ」
 小倶那の抗議を聞きもせず、遠子は満面の笑みで雪を掴んだ腕を振りかぶった。見事にそれは小倶那の顔に命中して、小倶那はやったなと呟きながら、それでも溢れてくる笑みを止められなかった。

「ひゃっ?」
 いきなり首筋が冷えて、鈴は悲鳴をあげた。背後を振り返れば、寒さで鼻の頭を赤くした藤太がにやにや笑って立っている。どうやらかじかんだ手をそのまま鈴の首筋に当てたらしい。
「おはよう、鈴。びっくりした?」
「驚いたわ」
 まだどきどきしている胸を抑えて、鈴は答えた。そんな鈴を見て藤太は大きな声で笑った。
「阿高はどうした。こんなに積もったとなると、今日は大仕事だぞ」
「阿高なら――」
「ここだ」
 うしろに、と言う前に、静かに近寄ってきていた阿高が答えた。そして藤太が振り向く前に、持っていた雪の塊を素早く首の後ろから彼の着物の中に入れる。
「うおっ、冷たい!」
「鈴、藤太に何かされたら、仕返しはこうすればいいんだ。覚えておけ」
 鈴があっけにとられて頷くと、藤太が阿高の首根っこを捕まえて怒鳴る。
「阿高! よくもやったな!」
「藤太が鈴をいじめるからだ」
「いっちょまえのことを言いやがって」
 あっという間に二人は庭に積もった雪の中まで移動し、お互いに倒し倒され殴り合いが始まった。
「朝からよくやるわね、ふたりとも」
「千種さん。おはようございます」
 呆れた様子で顔を見せた千種に、礼をしてから鈴は笑った。
「でも楽しそう。あれが阿高が昨日言っていた、雪合戦なのかしら」
「……それは違うわ」

 ひゃひゃひゃ、と人間のように鳥彦が笑い続けるので、狭也は視線で叱責したが、彼は全くこたえていないようだった。
「鬼の霍乱とは、このことだね」
「鬼なんて失礼な人ね」
「鬼じゃない、神か。いやもう人か」
 冗談になっていないことを言う鳥彦を放っておいて、狭也は額の上の布を取り替えようと手を伸ばした。するとそのせいで目が覚めたのか、稚羽矢はぱちりと目を開けた。
「起きたの」
「…………科戸王がよく、鳥彦を鍋にしてやると言っている気持ちが分かった」
 狭也は嘆息する。
「まだ熱は下がっていないから、やめなさい。身体はどう?」
「だるい」
「それが風邪というものよ」
 布を絞りなおして額に乗せると、稚羽矢は気持ちがよさそうに目を細めた。
「冷たいな。雪はまだ降っているのかな」
「やんだわ。今は子どもたちが遊んでいるわよ。声が聞こえる? 雪かきをしてもらっていたのに、あっという間に雪合戦になっていたわ」
 笑って言うと、稚羽矢はかすかに微笑んだ。
「いいな。わたしも混ざりたい」
「風邪が治ってからね」

 ***

 豊葦原を遠き彼方より見守る天つ国で、美しいひとは微笑んだ。
「雪はいい。だが弟よ、おまえは少し痛い目を見た方がいい」
 それから再び人の世の様子を眺めて、くすくすと笑い続けた。


関連記事
コメント
瑞雪…また一つ素敵な言葉を知りました。(覚えましたと言えないのがつらいところですが)
たとえ忘れてしまっても、またここに来れば出会えて、またその美しさにしみじみとしてしまうと思います。
ある意味幸せな記憶力ということで、笑って受け流してください。
美しいお話をありがとうございました。
瑞雪……私もタイトルを決める際いろいろ検索して初めて知った言葉です。日本語は美しい言葉であふれていますね(笑)
感想ありがとうございます!!

管理者のみに表示