「そこの娘さん、ちょっと寄っていかないかい」
「わたしのことかしら」
「よい銚子があるよ。お一ついかがかな」
「あら素敵。でも勝手な買い物はできないわ。夫に聞いてみないと」
「おや、娘さんその若さで夫がいるのかい」
「ええ」
「それは残念。それにしてもあんたの髪はとても見事だ。思わず触れてみたくなるよ。ぜひともこの銚子で飾ってみたかった。おっと、こんなことを言ったらあんたの夫にやきもちをやかれてしまうね」
「あら、ありがとう。でもきっとわたしの夫はやきもちなんてやかないわ」
やきもち
「・・・どうして千種はおれがやきもちをやかないと思うんだ」
夜。
囲炉裏に座って千種は縫い物をしながらその日あったことをぽつぽつと夫に話して聞かせていた。
藤太も明日の狩に使う弓と矢の手入れをしていた。
夫の言葉に千種は縫い物の手を止めて視線を上げる。
藤太は千種の方を向いておらず、もくもくと矢羽をいじっているようだった。
千種はまた手元に視線を落とした。
「どうしてって・・・それは藤太が一番よく知っているじゃない。わたしはあなた以外から妻問いをされたことがないわ」
男たちから自分がどう見えているのかは自覚しているつもりだ。
同じ年頃の娘たちが想い人のことを楽しそうに話す隣で自分はそれを聴いていることしかできなかったが、それを不満に思ったことも無かった。
そもそも自分は男たちに魅力を感じてもらえるような要素はもとからこれっぽっちもないのだろうし、それで何も困りはしないと思っていた。
「千種」
思いのほか低い声に驚いて、千種はもう一度顔を上げた。
今度は藤太は真っ直ぐに千種を見ていた。
「やきもちっていうのは理屈でやくものじゃないよ」
藤太は持っていた弓矢を置いて立ち上がると、千種のすぐ脇に来て腰を下ろした。
手を伸ばせばすぐ届くほど近い。
そんな場所から改めて見つめられて千種は気圧された。
「と、藤太」
藤太がゆっくりと手を伸ばしてきた。
千種は反射的に手に持っていた針と衣を床に置いた。
藤太の手は、まるで神宝に触れるような厳かさで、そっと千種の髪の毛の一房を持ち上げた。
「思わず触れてみたくなる、ねぇ」
「ただの売り口上よ」
「千種、覚えているかい。おれがきみにはじめて触れたのは、この髪の毛だったね」
――まつりにきてくれるね?
覚えている。
それまではずっとどちらからともなく一定の距離を保ってきていたはずだったのに、あの日この人はそれを唐突に乗り越えた。
そうして一房の髪に触れて。
千種の背筋にまるで雷でも落ちたような衝撃が襲った。
はっと見上げた先のこの人の自信ありげな笑い顔。
負けを悟った。
「たとえ売り口上でも、何の根拠も無いことは言わないさ」
夫は手の中で妻の髪の毛を弄ぶ。
その指の動きに、千種は目が離せない。
いつもそうだ。
藤太に触れられれば、それがどこであろうと心穏やかではいられなくなる。
「顔が赤いよ、千種」
「そ、それは」
「髪を褒められたときも、そんな顔をしていたんじゃないだろうね」
「え・・・」
藤太はぱっと髪を手放すと、そのまま妻の腰を抱き寄せた。
「千種、かわいいおれの千種。男はこの世におれだけじゃない。きみに想いを寄せる奴が現れても、昔と違って国司や神と競う必要は無くなった。きみに声をかけたいと思えばいくらでもかけられる。だけど、そういうやつらについていってはいけないよ」
「藤太」
「きみの話を聴いて、おれはとても不安になってしまったよ。ねえ、千種」
夫は妻の肩口に顔を寄せて、すりっと頬をこすり付ける。
甘えているような仕草。
千種は胸がつまる。
藤太の低い、低い声が耳元で甘く響く。
「千種、どうか不安に震える哀れな夫をやさしく慰めておくれ」
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