真玉手、玉手さし枕き【イワノヒメ×オオサザキ】

2012.11.18.Sun.17:00
秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ

秋の田の 稲穂のうえにかかっている朝霞のように いつになったら わたしの恋は晴れるだろうか
                                 (万葉集巻第二 八十八)






 あの日の野は、これほど晴れやかではなかった。
 とつぜん降った春の雨に、髪も衣もすっかり濡れてしまったのだ。雨音もつめたい肌ざわりも、今となっては遠い幻だ。
 あのとき手を引いてくれた人は、どんなお顔をしていただろうか。
 やぶのなか、目と目を見交わしたあの人は、あまりに遠い。
 ただこの腕に巻きついている真玉の手纏だけが、秘めた恋を知るよすがなのだ。



「あなたがいらっしゃらなければ、わたしは一日とて暮らしてはいけません」
 幼さの残る甘えた声でそう言った夫に、伊波(いわの)姫はほほえみかけた。
 春の野は一面に青草がしげり、鳥が歌いさえずっている。風はただやさしく、頬をなでてとおりすぎていく。
 宮をでることにしてよかったと、久々にはればれとした気持ちで姫は夫をみつめた。ちかごろ物思いすることが多い夫は、まぶしい日差しのもとで過ごすことを、心から楽しんでいるようだ。
「なにをおっしゃいます。御方が健やかでおわしますからこそ、国人も心やすく暮らしをたてることができるのですよ」
 十八歳で結ばれたとき、夫は六つ年下の十二歳だった。
 末の子が跡を継ぐという一族のならいにより、政をまかされた若き大王は、多くのことを妻の一族に頼った。
 大王は妻を姉と呼んで慕った。膝枕をせがみ昔語りを枕べで所望する大王は、伊波姫にとっては守るべき弟のような存在なのだった。
 手に手を取って、国づくりをする。それは大王の大后になったときに課せられた役目だ。
 伊波姫。家を継ぐ姫としてうまれたことを、誇りにして生きてきた。それは、これからも変わるまい。
「姉上」
 何度たしなめても、夫はそう呼ぶのをやめないのだった。
 同母のきょうだいのようだと、そうささやく声が耳に届く。
「政のことを話しているのではありませんよ」
 そばにきて、手を取る夫を姫はみつめた。いつのまにか伊波姫の背を追い越してしまったのだろう。口よりもよくものを言う表情豊かな瞳は、今まっすぐに姫を見下ろしていた。かすかに笑いながら、それでもどこかいらだちをにじませた視線にさらされ、落ち着かなくなる。
「お心がさまよっているみたいだな」
 ぐんと背が伸び、顔つきからもあどけなさが消えてたいそう凛々しくなった。
 打ち解けた気安さがいくらかこの人を稚く見せたとしても、御座での振る舞いに関しては非の打ち所もなく、臣や連を束ねて堂々としているという話だ。大王は、もう子どもではないのだった。
(大きくなられた)
 そういえば、ちかごろは膝枕も昔語りもしていない。
(大人になられたのだ)
 それが我がことのようにうれしく、なのに、どこか寂しいような気持ちがするのが妙だった。
「どうか、そのお手をのべてください。しろくてやさしいお手を」
 歌いかけるように、美しい声でそう言う。
 大王の美点のひとつは、このやさしい声だった。
 どんな命令も、この人の声で下されれば聞かずにはいられまい。やわらかで、しかもたわまぬ不思議と強い声だ。
「今夜は一緒に寝ましょうよ。このところ、はぐらかされてばかりでしたね」
「そんな大きなお声で」
 目を伏せて、姫はささやいた。
「あなたのところに、今日こそは招いてもらいますよ。いやだと言ったって、むだですからね。あなたの好きな藤の花を持って、お伺いしようかな」
 侍女たちがうっとりとため息をもらした。姫はしぶしぶ、夫を見つめ返した。
「藤の花にひとしく麗しいあなた。どうしてわざわざお尋ねになるのでしょう。わたしの寝床は、あなたがあたためてくださらなくては。恋しいあなた」
「その言葉を待っていました」
 にっこりと笑い、さっそく藤を探しに人をつかわしたようだ。
「さあ、皆も藤を探せ。どんなつれない方も、藤の花が衣の下紐のようにうつくしく垂れているのをみたら、心やわされて招き入れてくれるかもしれないよ」
 供人たちが駆けていく。侍女たちの華やいだ声が野に響いた。
 高い空に、楽しげな笑い声が吸い込まれていくようだ。
 空は広く、雲は心地よさそうに流れていく。
 しかし、胸のうちは春の野と同じとはいかなかった。
 笑みがぎこちなくこわばってはいないだろうか。
 皆人の前で、取り乱すわけにはいかないのだ。
(この人ときたら・・・・・・)
 ため息をほほえみに隠して、姫は目を伏せた。
 侍女にかしずかれた幼い王子たちのもとへ、父たる大王は機嫌よく歩み寄っていった。そうして二人の御子を肩に乗せ、笑いながら歩き回る様子はほほえましいが、同じだけ人の目が気にかかった。
 野遊びに招かれた人々は、今夜も大王が宮にとどまると聞いて、がっかりしたことだろう。
 大后として、ほかの妃のことも思いやるのは勤めのうちだ。
 幸いなことに、大王と伊波姫の間にはすでに二人の王子がいた。このうえは、ほかの多くの妃たちとの婚いで、さらに絆を強めるべきなのだ。
 なのに、大王はすこしもよそを訪ねようとはしない。
 伊波姫の嫉妬のせいだと、陰口をささやかれるのがつらかった。
(政をないがしろにしているわけではないのに)
 野に出ていながら、心は地の底深くに縛りつけられているようだ。晴れやかな空をみて気持ちが晴れたのはほんの一瞬で、すぐに日々の憂いが胸をしめてしまう。
 政のためにこそ、葛城の伊波姫は今ここにいるというのに。
 葛城は古い大和豪族のひとつであり、大王の一族とはもっとも因縁の深い間柄といってよい。何度も繰り返された戦いののち、手を組み国づくりを始めた今、婚姻によって豪族たちの結束を強めるのは必須のことなのだった。
(大王はまだお若い)
 十五という齢ならば、もっと外に出て妻を求めてもいい。やんわりと諭しても、しかし夫は姫の願いなど聞く耳ももたないのだ。
 幼い頃から、泣いた顔も怒った顔もずいぶんと近くで見てきた。きっと、同母のきょうだいよりも近くで。
 もし初寝の相手が夫だったなら、これほど苦しむことはなかったかもしれない。
 藤を捧げられた夫が、こちらに手を振っている。伊波姫は袖を振り返した。
「浮かないお顔ですね」
 木陰に入ると、ふと声がかかった。木の間からさす日差しが、枝をよけて頭をさげた人の衣の肩口に、まだらに影をおとしている。
「お久しぶりです、伊波姫」
 胸が高鳴った。低い声が肌をぶつようだ。注がれるまなざしに顔が熱くなる。
「お疲れですか」
「・・・・・・山城若郎子どの」
 太刀を履かない身軽な装いは、ひどくめずらしかった。
 兵を率いる将軍として、白銀のよろいかぶとに身を包み、威勢をしめす姿が目に刻まれているせいだろうか。それとも、何年も前の春の野での記憶が、焼きついているせいか。
 心の奥に隠そうとしても、思いはいつの間にかあふれ出してくる。
(押しとどめても・・・・・・)
 そうして、姫の心を昔に縛りつけるのだ。真玉の手纏を贈ってくれた、その連なった石と同じくらいにきらめいていた目を、ことあるごとに思い出してしまう。
「目がくらんだだけです」
「人を呼ぼうか。やれやれ、あなたの侍女まで藤狩りに遊びほうけているじゃないか」
「いいのです。たまには、こうした楽しみがなくては」
 声が震えた。身をよじり、顔を背けても視線が追ってくるようだ。
「あなたはやさしいね」
 いたわりに満ちた声だった。
「王子お二人の母上とも思えない。やはり変わらずお美しいね。大王の寵愛の揺るがぬあなたのことだ。また身ごもられたのでは」
 なにも言い返せなかった。
 それは本当ならば大変な吉事だというのに、心から喜べもしない自分がひどく薄情に思われた。
山城若郎子は、薄い唇に笑みを浮かべた。
「守人をつとめるのも楽ではないと、大王にそう愚痴を申し上げにきたのですよ。だが、あなたのお顔を見たら、物憂さなどたちまち吹き飛びました」
 山城若郎子を慕うものは多いときく。
 前大王の御子でありながら、都から遠く離れた辺境の守りを命じられたこの人は、ほとんど王宮に顔を出さないものの、大変な人気があるのだった。郎子を一目見ると、人を逸らさぬ笑顔に心引かれずにはいられないのだ。
「ご冗談を・・・・・・」
「冗談なものか」
 声を潜めて、目を合わせる。
 一瞬、雨音が聞こえたような気がして、姫は目をみはった。
「最後にお会いしたのは、もうずいぶん前だね」
 それ以上口に出さずとも、通じるものがあると思うのは、思い上がりなのだろうか。
「もう、お忘れになったかと思っていました」
 ふるえる声で伊波姫はつぶやいた。
「忘れるわけがない。その手纏を」
 はっとして、伊波姫は左の手首をおさえた。
 そのあとに何を言いかけたのだろうか。彼はさっと青ざめてひざを折り、頭を垂れた。供人をひきつれた大王が、近づいてきたのだった。
「やあ、兄上」
 突き刺すような声に、身が凍る心地がした。大王が異母兄に対して、こんな風に冷たい物言いをするのはめずらしかった。
「わたしのもとにくるのが先では?」
 あからさまな嫌悪をあらわすところなど、みたことがない。
「あなたが軍を率いねば、戦は長引いたでしょう。今日の野遊びは、あなたをねぎらうためのものでもある」
「恐れ多いことでございます」
 くぐもった、聞き取りにくい声で山城若郎子は言った。
「山城の訓練された兵に守られていると思うと、心強いことだ」
 大王は冷たい声でそう言ったきり、あとは一言も口を開こうとはしなかった。



 そうそうに宴席から離れて自室に戻った姫は、脇息によりかかるように顔を伏せて、目を閉じていた。侍女が運んできた白湯に手をのばすのもおっくうだった。
 不穏な話を耳に挟んだのは、そんな晩のことだ。
 うめくように姫はつぶやいた。 
「山城若郎子どのが、謀反?」
 背筋にざわざわと悪寒がはい上ってくる。 
「どこからそんな話が出たのだろう。あの方が、そんなおそろしいことをお考えのはずがないだろうに」
「大王の仰せです」
 細い侍女の声に、胸がさすように痛んだ。顔を上げると、まだ幼さののこるあどけない顔立ちをした娘は、ただ驚いたように見つめ返してきた。すぐに不作法に気づいたか、平伏して早口で言った。
「若郎子さまが、杯を落としてしまわれたのです」
 体を起こすと、姫は鳴る胸を押さえた。
「杯を?」
「飲み干されるたび、何度も重ねてお与えになられました。山城若郎子さまのお手が滑り、杯が落ちたのを見て、御方はお笑いになったのです。与えた杯を落とすのは、二心があるからだと」
 姫はわき上がってきた怒りのままに、脇息を叩いた。
「大后さま」
「あの方をそのように軽んじることは許されません。母は違えども、前大王の御子、きょうだいだというのに」
「大后さま、御方のお怒りはごもっともかと」
 震える声でそういう娘を、姫は見つめた。
「どういうこと?」
 といただそうとしたところに、先触れがあった。
 姿を見せたのは気安い相手で、今一番顔を見たい人でもあった。
「女鳥姫、よく来てくださいました」
 穏やかで言葉数のすくない姫は、今年十四になったばかりだ。大王や山城若郎子にとっては異母妹にあたる人で、数多くいる前大王の娘のなかでもっとも美しく清げで、穏やかな性質をもった姫だった。
 年下ではあったが、伊波姫にとっては心を明かせる大切な相手で、友とも呼べる人なのだった。
 女鳥姫の唇は青ざめて、かすかにふるえているようだった。いつにもまして静かな姫は、けれど伏せた顔をあげたとき、見たことのない強い目をしていた。
「どうなさったのです」
「月を見に参りましょう、大后さま」
 か細い声は、しかし断ることを許さぬような力があった。

 この晩は、満月だったのだ。
 廊に出てひさしのむこうの月を見上げていると、白く輝く光の中に吸い込まれてしまいそうになる。
「きれいね」
 女鳥姫の姿は、月光の中で淡くにじんで見えた。肩にかけた襲が天女の衣のようで、伊波姫はしばしみとれた。
「すぐに欠けてしまいます。満ちた月は悲しいですわね、大后さま」
 月を見上げる横顔が、ひどく思い詰めているように見えるのは、気のせいではなさそうだ。
「あなたはお美しくなられたわ、女鳥姫。さながら、欠けることを知らぬ月のように」
 年若い大王と、彼の美しい異母妹はさぞかし似合いの妹背になることだろう。
「大王はあなたのことをたいそう大事になさるでしょう」
 仲立ち人をまじえた話し合いはうまくいったはずだ。大王は近いうちにこの人のもとを訪れることだろう。葛城と同じく、大王家とも縁の深い丸邇(わに)一族の姫であれば、妃として何の不都合もない。
「夫を心から慕っております」
 か細い声は、はっきりと耳に届いた。突き放すようなとがった声だった。かける言葉もみつからないまま、伊波姫は立ち尽くした。泣いているかのように潤んだ目には激しさがある。
 そのとき、なぜ大王ではなく、他の人の面影が浮かんだのか。「姫?」「大后さま、お願いでございます」
 打って変わって懇願するように、女鳥姫はとりすがった。その面には、隠しきれない恐怖があった。
「どうか、大王に申し上げてはくださいませんか。わたくしは、夫のほかに誰かを迎え入れることなどできません。いとしいあの方のほかには、だれも夫と呼びたくないのです」
 手を取られ、伊波姫は息をすることも忘れたまま、黒曜石のような姫の濡れた瞳をみつめた。
 差し出された白い腕に、手纏がみえた。
 真珠の丸玉を連ねた、うつくしい品だ。
 これほどのものは、二つとあるまい。伊波姫の持ち物のほかには。
 細い腕に重たげに巻きついた手纏を見たとき、いったい自分はどんな顔をしていただろうか。
 伊波姫はそればかりが気にかかった。
 


 夫婦の寝床には、まぐわいの匂いがみちている。
 夕暮れのころから降り出した雨は、幾重にも垂らされた帳のようだ。だれも踏み込んではこない臥所の奥には、熱くけだるい吐息が満ちている。
 手を引いて誘いかけ、思いのままに振る舞った夫は、それでも鬱憤をつのらせた目で、射抜くように姫を見つめた。
「御方?」
「まだ足りない」
 半身を起こした人は、姫の顔をじっとのぞき込んだ。
「慰めてくださいますか」
「知りません。勝手になさったらいいんだわ」
 かすかに大王は笑った。
「怒っていますね。この間、隼をつついたからですか」
 つついたどころの騒ぎではない。
 大王の一言は、何よりも重いのだ。謀反を疑われた山城若郎子が、どれだけ心苦しい思いをしているか、思うだけで気の毒だった。
(女鳥姫のことも)
「ああなさるべきではありませんでした。取り返しのつかないことになったら、あなたを恨みます」
「わかっていますよ、我が身の浅はかさに、吐き気がします」
 少しも悪びれない言い方は、憎めるものではなかった。
「あなたときたら。本当に怒りますよ」
 静かにささやくように、夫は言った。
「あなたはわたしをいまだに同母弟のようにお思いなんだな。それがくやしい」
 驚いて伊波姫は言い返した。
「同母のきょうだいと、枕いたりはしません」
 ほほをかるくつねると、そっぽを向かれてしまった。
「また子どもの扱いをなさる。わたしは、それほど頼りない?」
 しとねに押しつけられるが、苦しくはなかった。寝床は、あたたかく身を包む安全な巣のようなものだ。姫は苦しげに眉をひそめた夫を、細く息をつきながら見上げた。
いくつもの夜を、この人と過ごしてきたのだ。
「わたしがあなたに、ひとつでも」
「なに・・・・・・なんですって?」
「勝るところがあるとすれば、いくらか早く産まれて、あなたをお待ちしていたということだけ」
 問うように夫は見つめ返してきた。
「ずいぶんあなたを待っていたのですから、少しばかり知ったふりをしてもいいでしょう? 大鷦鷯(おおさざき)」
「姉上」
 切ない声がそう言った。
「あの人のことはお忘れください。高い空を飛ぶ鳥のことは」
「わたしの大鷦鷯、ほかの鳥のことなどしりません。麗しい、やさしい鳥のほかに、気にかかる方などわたしにはいないわ」
「そう?」
 笑みこぼしたが、目だけは光っている。
「あなたはうそをつくとき、わたしと目を合わせる。そのことに気づいていましたか? いつも高い空を見上げているあなたに、わたしはさぞ滑稽に映るでしょうね。鷦鷯のようにたくさんの妻を持てと、そうせっつかれてもしないのは、あなたが恋しいからなのに。のんきなあなたが恨めしい」
 伊波姫は押し黙った夫をみつめた。物言いたげな瞳はゆれていた。
「あなたに明かすことがあります。あなたの秘密を、わたしは知っているんだ」
「秘密?」
「野遊びの日のことです。あなたが十八で、まもなくわたしの妃になろうという日のこと・・・・・・とつぜん雨が降りましたね。みな草のかげに隠れました」
「なんのことでしょう」 
 腕から逃れようとしたものの、きつく抱きしめられた。
「逃げてはいけない」 
 押し殺した声で、夫はささやいた。
「兄と共にいるのが、だれなのか。はじめはわからなかった」
 腕の力は強く、むき出しの肩に押し当てられた唇は熱かった。
「あなただとわかったとき、わたしがどれだけ兄を憎んだか、おわかりになられますか。許せなかった。あなたはわたしのものだと、ずっとそう思ってきたのだから」
 胸がこれほど痛むのが不思議だった。よく見知ったはずの夫が、見知らぬ男に思えておそろしくもあった。
「あなたを意のままにした兄を、憎みました。でも、あなたのお顔を見て、思いとどまったのです。あなたは雨の降る前とは比べようもないくらい、美しく泣いておられたから」
「なにを・・・・・・」
「慕わしい。憎いのに、こうしてお顔を見ずにはいられない」
「大鷦鷯」
「このうえ、あの人をかばい立てすることはできない。恋敵に情けをかける余裕はありませんから」
「冗談はきらいだわ」
「・・・・・・冗談なら、どんなにかいいのに」
 夫は怒ったようにつぶやいた。
「大王として、威厳を示さなくてはならない事態になってしまったのですよ。ご存じでしょうね、女鳥姫のことは」
 息をのむ音が、やけに大きく耳に響いた。
「兄と争うことは避けられないでしょう。焚きつけて、煙がどう流れるか、一緒に見ていましょう」
 夫のあたたかな指が下唇をなぞった。そうされてはじめて、唇をきつくかみしめていたことに気づいた。
「兄を想っていてもいい。あなたがわたしを見なくても。だから、お願いですから、ここでお泣きなさい。わたしの目の届くところで」
 そう言う人のほうが、今にも泣きそうな顔をしている。伊波姫は夫の頭をだきよせた。そのとき、ほのかな汗の香りとともに、結い髪に挿してある藤の花びらが頬にふれたのに気づいた。かすかな香りが鼻の奥に忍び込んだ。
 伊波姫は、涙にぬれた夫のまなじりに、くちづけを贈った。



 王宮を辞したのち、山城若郎子はすぐに身を隠した。女鳥姫がそのかたわらにはいたという。
 大王の妃となるはずだった女鳥姫と通じた罪は軽くはない。丸邇一族もこれを重く見て、娘を一切かばいだてしなかった。
 わずかの手勢で山里に逃げ込んだ二人は、名も知らぬ侘びしい村で討ち取られた。
 山城若郎子の仕立てた軍は、決起するまでもなく散りぢりになった。謀反の事実は今となってはたしかめようがない。

 知らせを受け取ったとき、ただ、むなしさが胸をしめつけるようだった。
 庭におり、伊波姫はひとり池の縁にたたずんだ。
 どんな気持ちで、女鳥姫はあの人についていったのだろう。
 もし、初寝の相手が彼でなければ、女鳥姫は死なずにすんだだろうか。
 胸元から真玉の手纏を取り出して、伊波姫はじっとながめた。
 女鳥姫の肌のぬくみをいまだにとどめたような白い手纏を、どうしても手放せずにいた。見つめていると死に魅入られそうになる不吉な品だとわかっていても、ふれて確かめずにはいられなかった。
 これとほとんど同じ手纏を、伊波姫はいままで恋のあかしとして身につけてきた。
 一族の大姫としての役目を果たそうとして、むりやり胸の奥におしこめた恋心。手纏だけがより所だった。
 妻求ぎの品でもなく、約束の証でもない。おそらく、肌を合わせた相手に気まぐれに与えてやるような、そんな情けのきれはしだったのに。
(なぜ逃げたの)
 女鳥姫のことを、なぜかりそめの恋の相手として捨て置かなかったのだろう。なぜ、伊波姫の手を取ってはくれなかったのだろう。望めば、あの人は一緒に逃げてくれただろうか。
(・・・・・・愚かね。本当に)
 突き上げるように怒りがこみ上げてきた。
 伊波姫は力任せに手纏をちぎり取った。
 ぽろぽろとこぼれた真珠がはかなくて、頼りなくて、いっそう腹が立った。緒はすぐにちぎれるほどのものだったのに、どうしてこれほど頼みにしてこれたのだろう。
 恋を一筋に思い切れる、女鳥姫ほどの強さも自分にはない。ともに滅びることもできないくせに、ただめそめそと誰かを憎んでいる。
 強く愛することもせず、ただ愛されたいと望んで。
 ふたつの手纏を、伊波姫は青く藻のたゆたう池に放った。
 音もなく沈んでいく真玉は、暗闇にぽつぽつと灯された光のようにきらめきながら、水の底へ沈んでいった。
 ふと、藤のかすかな香りが鼻をかすめたような気がした。
(まだ残っていたのだろうか)
 藤の季節はとうにすぎた。恋人たちが討ち取られてから、ずいぶん時がすぎてしまった。
 すべてが夢の中のできごとのようだ。
 雨の日の仮寝も、真玉の手纏のことも。
 まぐわいを見ていたという夫のまなざしを思うと、肌がじりじりと焼かれそうな心地がした。
 すべてを忘れてしまいたい。何もかも振り捨てて、何もかも忘れ去ってしまいたい。
(逃れたかった)
 底のそこから、ぽっかりと浮かび上がってきた想いに姫は気がついた。
(どこへ?)
 答えはみつからない。探すつもりもなかった。
 伊波姫は鳥もさえずることをやめた晩秋の空を、そっと見上げた。



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