くいなの鳴く夜

2012.11.01.Thu.04:17
 その夜は、しんとして静かだった。
 だから、つつましく戸をたたく音が聞き取れたのだ。

 年が明けてから幾日かが過ぎたある晩、郡境の丘をのぞめる里はずれの家を訪ねてくる人があった。
「若い衆かねえ」
 母が案じるように言った。夕暮れの頃、乗り手のない迷い馬が二頭、あぜ道うろうろしている所をみつかった。聞けば、今日は東の竹芝の若者たちがそろって狩をしようと野にでたらしく、ここいらをまだうろうろしているかもしれないと、さっき真守がきて言いおいていったばかりなのだ。
 土間におりてそっと戸を開けた千種は、思わず息を止めた。
 ほんのわずかに開いた戸の隙間から、冷たい風が小雪とともに吹き込んでくる。青ざめた若者と目が合う。彼が見過ごしてはおけない傷を負っていることも見て取れた。
 彼らが例の馬の持ち主なのだろう。
「迷ってしまったんです。ご迷惑とは思いますが、どうか休ませてくれませんか」
 率直な言葉にはなんの裏心もなさそうだった。自分の勘の良さを、千種は信じて誤ったことがない。それが密かな自慢でもある。
 真守が常々いっているように、血気盛んな荒くれものには見えなかった。彼らに必要なのは、雪風をしのぐ場所と、少しの食べ物と、休息だ。
 反目している相手だろうと、困っている人を突き放すことはできない。
「千種や」
 母の呼ぶ声に、千種は迷わずに言葉を返した。
「気のせいみたい。くいなかもしれないわ」
 父や母にしれたら、この人たちは日下部の若衆のまえに引き出されることになるだろう。それは考えるだに、気の毒なことだった。
「くいなかい。おかしいね、夏でもないのに」
 くいなは妻を求めて夏になく鳥だ。
「本当ね。お母さん、わたしちょっと小屋に行ってきます。戸を閉めたか心配で」
「気をつけておいき。足下が暗いからね」
 千種は外へ滑り出ると、納屋へ二人を案内した。荒薦を直土の上に敷くと、傷口をおさえたほうが、ほっとしたように「ありがとう」と言った。ささやかな灯りがともった納屋で、千種は息をのんだ。座りこんだ人と、そのそばに腕組みして立つ人は、表情は違うものの、まっすぐに千種に視線をそそいでいたのだ。
 こわくはなかった。ただ、奇妙なおののきに、胸がざわついた。
 家にとって返した千種は、ひつに残ったご飯を握って懐にかくし、椀を抱くようにして納屋に向かった。水かこぼれて着物のそでをぬらした。
 ほんの少し開いた戸から、抑えた声が漏れ出てきた。
「阿高、じっとしていろよ。あの子は信用できる」
 ほがらかな声でそう言ったのが藤太という名だと知ったとき、千種は知らず知らずのうちに唇で名をつぶやいていた。我に返って、千種は頬が熱くなるのをいぶかしく思った。
「どうだか。あの女が告げ口しないって、どうしてわかるんだ」
 千種をきつい目でにらみつけていたほうは、阿高。まるで藤太の母親のように寄り添っている。傷ついた子を守ろうと、毛並みを逆立てる山猫みたいだ。
「告げ口などしないわ」
 千種は、はっとして押し黙った二人をにらんだ。納屋の戸をしめると、それきり口もききたくない気持ちで、藤太の傷口を手当てしはじめた。
 握り飯と水という質素な食事を、二人はずいぶん喜んだ。腹をすかせていたのだろう。神経をとがらせていた阿高も、藤太の手当がおわるころには、いくらか態度を軟化させていた。
「やっとひとごこちがついたよ」
 藤太が寝入る間際のようにぼんやりと言った。
「こんな目にあったが、悪いことばかりじゃなかった。できれば、もうすこしやさしく手当てしてほしかったけど」
「これ以上、どうやさしくしたらいいのかしら」
 千種はむっつりと言った。皮肉でも何でもなく、本心だった。
「栗毛ともう一頭、あなたたちの馬でしょう。里のはずれの一本杉のあたりに厩があって、そこにつないであるはずよ」
「ほんとうか、助かるよ」
 藤太はほほえんだ。そのとき、目があったのは千種にとっては大変な災難だった。胸が急に早く鳴り出し、頭にかっと血が上った。こんなことは、はじめてだった。
「きみは、千種というのか」
 藤太の口から自分の名を聞くと、それだけで動転して、千種は勢いよく立ち上がった。
「ちがうわ」
「そう? 母さんがそう呼んでいなかった」
「・・・・・・ちがわない」
 逃げ出してしまいたかった。何を口走っているのか、さっぱりわからない。動転しているのだ。どこかで冷静に、そんなことを考えていた。人にどう思われるか、そんなことを気にとめたことなどほとんどなかったのに。
「おれは、竹芝の藤太というんだ。そっちが阿高」
 藤太は照れくさそうに千種をみつめた。
「ありがとう。きみには、かりができたね」

 明け方に納屋をのぞくと、彼らの姿は消えていた。

 竹芝の若者をかくまった夜のこと。
 それは千種にとって忘れられない出来事になった。
 藤太は、笑みひとつで千種を落ち着かなくさせたのだった。
(あれは、なんだったのだろう)
 藤太と目と目を見交わした一瞬に、胸に芽生えたもの。
 もういちど彼と会えば、わかるだろうか。
 とりとめのない思いを、織物のようにしっかりと手にとって見ることができたらいいのに。
 千種は一人で機を織りながら、そんなことをつらつら考えた。
 もうじき、くいなの鳴く夏がくる。
 戸をたたく音がするのを、心のどこかで待ちわびている。
 千種は迷いなく、杼(ひ)を縦糸の間に滑らせた。
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