影ふみ2

2012.10.24.Wed.04:07
「川のそばの家?」
 次の日の昼過ぎ。
 野菜を洗う手をとめないまま、千種は言った。
「よくよくは知らないけれど、聞いたことがあるわ。ずいぶん前に郡領にそむくことをして、出て行くか、はずれの境の方へ移り住めと言われたのですって」
 鈴は千種の顔をのぞきこんだ。
「娘さんのほかに、だれかがいるようにも見えなかったわ。まさか、あの人は一人で暮らしているのかしら」
「男の仕事は骨が折れるものですもの。もしかして、そうしなければならない事情があるのかもしれないわ」
 千種の顔つきは曇っていた。けれど、やはり阿高が難色をしめしたように、それ以上かかわり合いになることは避けるべきだと、やんわりと鈴をさとしたのだった。
「でも、気になるの」
 ざるを抱えて小道をゆきながら、鈴は小さな声で言った。
「口を出すと憎まれるわ。あなたは竹芝の郡領の家の者だし、こう言うのもへんだけれどね、あなたはとても目立つのよ。何をしても面白くは思われないでしょう」
 そういうものなのだろうか。
 あの娘のさびしげな顔が、なんとなく忘れられないでいる。 
「きみの手が洗ったと思うと、いっそう菜がうまそうにみえるね」
 道の脇からひょっこり顔を出した藤太は、首を傾げた。
「鈴もいたのか。何の話をしていたんだ? 深刻そうな顔をして」
 千種は鈴をちらと見やった。それから、手短に話して聞かせたのだった。藤太の表情が、だんだん曇っていくのを鈴は見逃さなかった。
「阿高は手を出すなっていうだけなのよ」
 鈴はかごを持ったまま、藤太に詰め寄った。
「薄情だわ、阿高は」
 藤太はため息をはいた。
「それは違うよ。・・・・・・ああ、まいったな」
「何か知っているのね」
 千種のつぶやきには責める響きなどなかったのに、藤太はとたんにあわてて目を泳がせた。
「いやあ、そろそろ畑に戻らないと」
「藤太、阿高が薄情者でないことは、わたくしもよくわかっています。隣郡のことだから、手出しは不要ということもわかるけれど。何かを隠しているんでしょう」
 着物の袖をつかまれた藤太は、唇を結んだ。
「あとで阿高に恨まれるな」
 
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