守人

2011.08.17.Wed.11:31
「父うえ!」
 御座ちかくの庭に下り、橘の花を愛でていると、かん高い声がした。
「まったく」
 ぶつかるように抱きついてきた童子を、ため息とともに抱き上げて肩に乗せると、科戸王は怒った声で言った。
「何度も言うが、わたしはそなたの父ではない。よくよく顔を見ろ」
 上からおそるおそるのぞき込んできた子は、にこっと笑んで、うなずいた。
「まちがえました」
「ここで遊ぶのは禁じられているはずだが。皆が探しているだろう。心配させおって」
「父うえと、お話したいのです」
 肩に乗せたのは間違いだったと、科戸王はくやんだ。先頃四つになった王子は、近ごろますます活発になり、宮中を探検して回っている。それをけしかけているのが鳥彦であり、毎日どこかで迷惑をかけているのだ。
 とはいえ、叱られればあやまる素直さも持ち合わせているこのおさな子を憎める者はおらず、だいたいの悪事を大目に見られているのだった。
「大王の政を邪魔することだけはならん」
 科戸王はできうる限り恐ろしげな声で言ったが、格別の席に陣取った王子にはあまりこたえていないことは、はしゃいだ声で分かった。
「見て、父うえがいらっしゃった」
 その声につられて廊のある方へ顔を向けると、数人の臣たちと歩いてくる稚羽矢の姿が見て取れた。
「王、あちらへ行きましょう」
「こら、足をばたつかせるな。わたしはそなたの馬ではない」
 稚羽矢はふと足を止め、こちらへ向き直った。科戸王は仕方なく王子を肩に乗せたまま地にひざをつき、頭を垂れた。
「なぜこんなことをなさるのです? 科戸王は打ち合いで父うえをいつも負かしてしまう。お強いのに」
 本当に子どもというものは無邪気だ。王はさとすようにゆっくりと言った。
「臣下の礼というものだ。そなたの父が一番強いということにしておけば、皆安心する」
 食い下がるように王子は言った。
「でも、父うえはおっしゃっていました。いちばん強いのは母うえだと」
「たしかに。わたしもそなたの母には勝てる気がせん。しかし、黙っておけ」
 庭の土を踏みしめてくる音とともに、笑いを含んだ声がした。
「楽しそうだな、王子。きゅうにわたしより大きくなったようで驚いた」
「大王におかれましては、ご機嫌うるわしく」
 ぶつぶつとつぶやくと、稚羽矢は笑った。
「誰もいない。わたしだけだ」
 それを聞くなり王は立ち上がり、首に足を巻き付けようとする王子を引きはがして地に立たせた。
「父うえ」
 小さな体でも、容赦なくぶつかってこられると手に余る。稚羽矢は身を屈めて王子を抱きとめると、その頭をなでた。
「甘やかしすぎではないのか。けしかける者もあるとはいえ、宮中をひっかきまわしているぞ、このちび助は」
 稚羽矢は困ったように目を細めた。
「少しさびしいのだろう。狭也は生まれたばかりの姫にかかりきりだからな」
 そういう者のほうがよほどさびしそうな顔をしていると、科戸王は言おうとしてやめた。
「して、今日は何をして遊んでいたのだ」
 稚羽矢がたずねると、王子はなかなかあなどれぬ、いたずら者の目つきをした。王は似たふしもないのに、鳥彦の憎たらしい笑顔を思い出した。王子の御付として適任と言えるかどうか。これは少々頭の痛い問題だ。
「野駆をしたいのです」
「だめだ」
 科戸王はばっさりと切り捨てるように言った。
「政の邪魔をすることは許さぬ。それに、もうすぐ昼だ。野遊びは一日がかりの準備がいるのだ」
 念を押すように王は言った。
「わがままはいかん。そなたの言い分がすべて聞き届けられるわけではないぞ」
 王子を見ると、唇を引き結んでいた。今まではしゃいでいたのが嘘のように、目を赤くして涙をためて、うつむいている。内心ひどくうろたえながら、王は眉間にしわを寄せた。  
「王は、意地悪だ」
「科戸王を悪く言ってはいけない」
 稚羽矢がたしなめるように言った。
「王はこの上ないそなたの守り人なのだ。そなたをこれほど叱ってくれる人を他に知っているか?」
 王子は顔を上げ、王をじっとみつめた。ひるみそうになるほどまっすぐな目だった。ややして、細い首を横に振り、素直に頭を下げた。
「ごめんなさい」
 ほぼ毎日のように顔をあわせているというのに、ふとどこぞの知らぬ子に見えて王は驚いた。
 息子をみつめる稚羽矢は、ふっと頬をゆるめた。笑んだ目元にはしわが見える。月代王の地上にありし日の面影より、幾分年をかさねた姿の稚羽矢は、いまや背も伸び、まなざしには穏やかさと聡明さが備わっていた。
「よい、行こう」
 稚羽矢の言葉を聞くと、王子の顔がいっぺんに明るくなった。
「・・・・・・安請け合いなどして」
 稚羽矢はのんびりと言った。
「われわれだけで行くのだ。それに、狭也に贈るよいものもみつかるかもしれない」
「それはよい。狭也も気が紛れるだろう」
 産褥を過ぎていない狭也に、何か色のついた草花でも届けられたら、きっと喜ぶだろう。
「王はまだ狭也に恋しているのか」
 稚羽矢は声を潜めた。冗談かと思って見ると、大王はひどく子どもっぽい嫉妬をあらわにしていたので、王は驚きに声もでなかった。
「心を御せるなら苦労はせん。だが、そなたの横からさらえるものなら、とっくにそうしている」 
 王子には聞こえないように、稚羽矢に告げると、あまりにあっさりとうなずき返した。
「わかっている。冗談だ」
「ばかもの。ねぼけたことを言っていると、容赦せんぞ」
 今日まで、色々なことがあった。一筋縄ではいかない問題もまだまだ多い。
 しかし、守るものがある人間は、どこまでも強くなれるものだ。泣きながらでも、痛みにうめきながらでも、前に進むことができる。
 とくに、あらゆる災い事から遠ざけておきたいと願う人がいる今こそ、強くそう思うのかもしれなかった。
「そなたは守り人だな」
 つぶやくようにささやいた稚羽矢に、科戸王は愛想なく返した。
「きさまのことなど知らん。自分の身は自分で守るのだな。わたしが命をかけて守るのは、狭也と御子らだけだ」
「わかっている」
 稚羽矢はひどくうれしそうに笑った。
「それでこそ、そなただ」 
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