りゅうの嫁取り10(終)

2012.10.19.Fri.08:09
 鳥があちこちでさえずり鳴く声がする。
 その下に、静かに流れる川があった。
 懐かしい。どこかで見た覚えがある。
(小白川・・・・・・)
 もしかして、千尋が幼い頃に失われたある川の、かつての姿なのかもしれなかった。
 名も知らない草花がしげり、風に揺れている。虫たちの羽音が聞こえる。流れの中にすむ魚の姿が岩の陰に見え隠れする。
 川面は日差しを照り返してきらめいている。千尋はそっと水の中に手を差し入れた。日の光を照り返したのとは違う、別の輝きを水底にみつけたのだ。
 冷たく凍えるような水にひじまでつかりながら、手を伸ばすが届かない。水をかき回していると、何かにふれた。
 胸が鳴った。それは冷え切った誰かの指先かもしれなかった。
 わずかのためらいのあと、息を止めて川に飛び込むと、千尋は泡立ち逆巻く水のなかに横たわる人をみつけた。

 ハク

 口を開くと、水が流れ込んできた。それでも、少しも苦しくはなかった。

 ハク!

 手を取ると、しなやかな指がほんのすこしだけ動いたような気がした。大きな手だ。やわらかな子どもの手ではない。
 水に乱される髪は、もしかして千尋のものより長いかもしれない。すっきりとしたひたいや頬に幼さはなく、知らない人のようだった。
 目をうっすらとあけたハクは、ふしぎそうに千尋をみつめた。その瞳は川面からのぞいた時に見えた水底の色と、よく似ていた。
「ハク。わたしよ、わかる?」
「夢・・・・・・本当にあきらめが悪いね、わたしは」
 心を込めて千尋は言った。
「あなたに言いたいことがあって、ここにきたの」
 ハクは悲しげに顔を曇らせた。千尋は、ひるみそうになりながらも、思い切って打ち明けた。
「お嫁さんにしてください」
「・・・・・・だれの?」
 ハクは怪訝な顔でたずね返した。
「あなたのほかに、誰かいるの」
「やっぱり、夢だ。そなたがここまでこられるはずがないもの」
 ほっとしたようにハクは笑い、千尋を抱きしめた。強くきつく背に回る腕の確かさが、千尋を泣きたくさせた。
「そなたに打ち明けたかったよ。でも、言えなかった。そなたと同じ年頃の大勢の子どもたちを見て、わたしがどんなに浅ましく身勝手なお願いをしようとしていたか、わかったんだ」
 深いため息がきれいな泡になって揺れた。ハクは、かみしめるようにゆっくりと続けた。
「千尋はどんなものも選びとれる。どんな未来も、望めるんだ。・・・・・・わたしが頼めば、きっと、やさしいそなたはうなずいてくれるだろう。でも、だからこそ願ってはいけないことだと、そう気づいたんだよ」
 肩のあたりに顔をうずめていた千尋は、ハクを見上げた。
「わたしは、嫉妬深い。手に入れれば、二度と離せない。誰かと分け合うこともできない。千尋を縛ってしまうのがこわい」
 背中に腕を回そうとしたのに、抱きしめられているせいでうまくできない。
「ハクがそうしたいなら」
 身をよじりながら、千尋は言った。
 見下ろしてくるハクの目は、怒ったように細められていた。
 千尋のあごを指でついとあげ、ハクは口づけをした。心地よい息吹が流れ込んで、それだけで満たされる気持ちがした。ずっとこうしていたい。水が彼の住みかなら、それもいいと思ったときだった。
「千尋?」
 唇を離すと、ハクは怖れと悲しみがあわさったような、青ざめた顔でうめいた。
「これはうつつのことなのか」
 千尋は早口で言い立てた。
「わたしを、お嫁さんにしてください」
「・・・・・・おろかなことを」
 ハクが手を振ると、水辺の景色はかき消えた。
「そなたは、どうやって暮らすつもりできたの。こんなわたしの連れ合いになるということの意味が、わかっているの? そなたにあげられるものなんて、わたしはなにひとつ持っていないのに」
 ハクの頬には赤みがさしているようだ。さっきよりずっと、いきいきとしてみえる。千尋はまなざしの強さに気圧されるものを感じながら、なんとか笑って見せた。
「あきらめて、あきらめつくして。もう、そのあきらめすらも捨てようと思っていたのに」
「とにかく、あのね。またあえれば、なんとかなると思ったの」
「なんとか」
 顔をひきつらせてハクはうめいた。
「なると・・・・・・?」
 それから、苦笑いをした。
「そなたにはかなわない。わたしが死ぬほどの思いで悩んでいたことを、こうも簡単にいうんだから。いや、もうよそう。そなたがきてくれて、わたしは本当にうれしいんだよ。本当に、本当に」
 どこか見覚えのある野原だった。くもりのない青空に、白い雲が流れている。緑の草原の起伏は、ゆるやかにどこまでも続いている。
 丘のむこうに、ちらりと家らしきものが見える。
「あ、リンさんどうしてるかな。少し前まで一緒にいたのよ。おじいさんも。ねえ、あの人はハクの知り合いなんでしょう?」
 ハクははっきりと顔をしかめた。
「そなたをたきつけたのは、あの人たちだね」
 思い出した。ここは、ハクと別れた、あの丘だ。
 トンネルを越えたところ、ふしぎな町に続く緑の丘に二人は立っていたのだ。
「ねえ、千尋」
 手をつないだまま、ハクは静かに言い出した。
「もうもとの世界には返せないのだよ。そなたが後悔しても」
「後悔するのはハクかもね」
 ハクは目をみはった。
「わたしが?」
「お嫁さんって、何をすればいいのかわからないんだもの。うまくできるとも思えないし・・・・・・食事のしたく? 洗濯? 掃除?」
 顔をうつむけたハクは、どうやら笑いをこらえているようだった。
「なに? 変なことを言った?」
 千尋を見つめる目は、ひどくやさしかった。
「ぜんぶ教えてあげる」
 きゅうにまごついて、千尋は顔を背けた。
「そういえば、どうしてハクはその……大きくなったの?」
「ずいぶん前からこの姿だよ。そなたには童に見えていたようだけど」
 顔を近づけて、ハクはほほえんだ。
「なぜ目をそらすの。お嫁さんになろうという人が」
「そらしてない」
「いいや、そらしているよ」
「あのときの姿に、戻ってくれない」
 ハクはからかうように首を傾げた。
「どうして?」
「ハクはかわいかったし、とっても」
「かわいい、か。これでも男神のはしくれだよ」
 ほほえみに顔が熱くなる。千尋はあとずさりした。
「そなたに頭をなでられて、どれだけわたしが情けない思いをしたか」
「わあ! ご、ごめんなさい!」
 ハクは吹きだした。
「この姿にも、はやく慣れておくれ。そなたのひざの上であやされるのもいいけれどね。これからは、いくらか骨折りをしなければならないだろうから」
「骨、折り?」
「どこの世界だろうと、住みなすにはそれ相応のしたくがいる。そなたを娶るなら、野のもののようにさすらうわけにもいかないだろう」
 いくらかすまなそうに、ハクは千尋を見つめた。もう引き返す道はないのだと。本当によいのかと、その目は語っているようだった。
 千尋はほほえんだ。後悔なんて、していない。
 選び、選ばれるのがこの人なら、行く先がどんな道でもかまわない。
 顔を見合わせると、ハクは清流に洗われた宝石のような瞳を揺らして、笑った。物思いやわずらわしさを振り捨てた、聞いていて胸がすく気持ちのよい声だった。
 光は、この人の瞳の中にある。
 千尋はうれしくなって、同じように声を上げて笑った。
「行こう、ハク」
 ハクは目を細め、まばゆそうに天を見上げてうなずいた。
「うん。行こう」
 つないだ手をそのままに、二人は野の草を踏みしめて走り出した。
 笑い声を、吹く風がさらっていく。
 じきに、青空をぬうように稚いりゅうが天をめざして駆けあがっていった。

 それを見守るものはなく、さりとてとがめるものもいないのだった。



 橋の中ほどから川を眺めていた水島は、とつとつと、道を駆けてくる足音に気づいた。
 ゆっくりと目をやると、輝く夕日のなか、毛皮をあかがね色に染めた狐が一匹いるのが見て取れた。
「よう、女狐」
 うなるような小声で、水島は言い掛けた。ふさふさの尾をゆらして、狐は首を高くあげた。
「いつもはおれの顔を見るなり逃げるくせに」
 水島は黒いネクタイをゆるめて、川面をみつめた。
「ずいぶん、経ったんだな」
 朱塗りの欄干にきつねが飛び乗った。
「あいつが行っちまったのは、昨日のことみたいに思えるのに」
 水島は鬱陶しそうに顔を背け、息を吐いた。
「あいつの母さん、ようやく元気になってきたんだぞ、そんなこと言えるか。・・・・・・あのな、人間ってのは、おまえらよりずっと繊細なもんなんだよ。わかるか?」
 声を荒くして、水島は狐をにらんだ。
「・・・・・・死んだら、もうおしまいだ。また会えるなんて、そんなの慰めにもならない」
 水島はつぶやいた。
「どんな言葉だって、伝わらない。おれだって、たった一言でいい。あいつの口から聞きたかったのに」
 狐は一声鳴いた。
 その声は高く、夕暮れの空を裂くように響いた。
 空を見上げた水島は、目を見張った。
 一筋の細い雲が、西の空にみえる。飛行機雲かと思ったが、そうではなかった。不自然な曲線を描き、やがてそれが、ややぶかっこうなハートだとわかると、水島は鼻を鳴らした。
「毎年、よくやる・・・・・・」
 空に描かれたハートは、じきに風に流され消えてしまう。
 ある決まった日時に、空に浮かぶ不思議な雲。遠くて近いあちらの世界からの便りだ。
 三年目の今日、空に描かれたのはそれだけではなかった。
 よたよたと、みみずのようにジグザグに空をゆく細い雲がある。
 まっすぐな雲のそばにあると、よけいにその未熟な線がこっけいに思えた。
「なあ、女狐。あの雲は」
 狐は猫が甘えるときのようにのどを鳴らした。
「ふうん、初耳。うるせ、なんだよ。いまさらショックを受けるかって」
 水島はふきげんに言ったあと、吹きだした。
「へたくそだな。あーあ、あれじゃ、ハートじゃなくてチクワだよ」
 笑い出すともう止まらず、水島は体をおるようにして笑った。
「おーい、ちび」
 めいっぱい息を吸い込んで、水島は大声をあげた。
「つぎは、もっとましなのを見せろよ」
 叫び声は空に吸い込まれ、やがて濃い藍色のにじみ始めた空に消えていった。


(終)
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