りゅうの嫁取り9

2012.10.18.Thu.08:09
 ちょうちんを捧げ持った手をさげて、小柄な老人は手招きした。
 頭を下げてから、何かものを言うひまもなかった。
 老人はひょいひょいと石畳の道をそれ、小道をぬけていく。千尋はリンと顔を見合わせた。神妙な表情をした姉貴分をまえにして、するべきことは明らかだった。
「あの、おじいさん」
 千尋は半分駆け足になりながら、ようやく追いついた。大股で歩いているわけでもないのに、老人はすべるように道をすすんでいくのだ。
「待ってください。ハクは、ここにいるんでしょうか」
「近くまでは行ける。案内しよう」
 重々しい声でそう言ったきり、あとはただもくもくと道を行くばかりだ。
(ここはどこなの)
 めまいににた感覚がおこった。風が吹いているわけでもないのに、あたりの木々はざわざわと揺らめき、色を変えているように見えた。新緑のさざめき、晩夏のくすんだ濃い緑。紅葉に寒々とした雪の白。
「千、じいさんの背中だけみとけ。よそみしないで歩くんだよ」
 気遣うような声にはっとした。
「リンさん」
「こわいか? 引き返すなら今のうちだよ」
 歩みを止めないまま、千尋はふるえる手を胸の前で握りあわせた。
 こわいけれど、前に進むしかない。
 かけだした千尋の背後で、あきれたようなリンの声がした。
「あーあ。・・・・・・転ぶなよ」

 ついたところは、見渡す限りの野っ原だった。どこからか、水の流れる音が聞こえてくる。けれど、せせらぎを抱くような川はみつけられなかった。足下に、ひしゃげた空き缶がひとつ落ちている。
 灰色の雲が幾重にも重なり合ったような暗い空に、押しつぶされそうな陰気な場所だった。立ち尽くしているだけで息苦しくなってくる。
「リンさん? おじいさん?」
 見回してみても、だれもいない。
 はっとした千尋は、大声で叫んだ。
「ハク!」
 雲が声を吸い取ったかのように、千尋の叫びは広がらずに消えてしまった。
「千尋よ。どこにいるの」
 間に合わなかったのだろうか。ハクはもうとっくに、消えてしまったのだろうか?
 ふと、野原の向こうに小さく輝くものがあることに気づいた。ほんのちいさなきらめきだった。けれど、この世界で唯一千尋を招いてくれるもののように思えた。
 かけだそうとしたが、やけに足が重たい。足だけではない。腕も振り上げるのがやっとのことだ。まばたきひとつするのも、呼吸すらままならない。
「小さきものよ。よくここまできた」
 どこからか声が聞こえてきた。倒れ込んだ千尋は、なんとか目をあけてその人をみつめようとした。ぼやける視界ははっきりしない。
(小さきもの・・・・・・わたしのこと?)
「その通り。人の世界の理から、はずれたところにおぬしはいる。最後にもう一度だけ問おう。ここより先にゆけば、おぬしは今までのすべてを失うのだよ」
 苦しい呼吸の下から、千尋は言った。
「ハクは・・・・・・どこ」
「あの光のもとにいる」
 しわがれた声は、やさしくさとした。
「お戻り。おぬしの体は、ここより先に進めないのだ。行くのなら、体を捨てねばならん。あの光と同じようなものになるしか、そばにゆく方法はないのだ」
 ハクは、このことを知っていたのだ。
 彼は、願うだろう。千尋が人の世界で幸せになることを。
 彼は、望まないだろう。千尋が体を捨て去って、彼のそばにいくことを。
 頬に流れた涙が、ひどく熱く感じられた。体が言うことをきかない。息をすることすらままならないのに、ふしぎと怖くはなかった。
(かまわない)
 引き返したら、ずっと後悔する。それだけは確かだった。
 伝えたい。それだけでいい。
 名を呼んだ。彼の真名を。
 するといっぺんに体はかるくなった。千尋は重たい荷物を放り捨てるように身じろぎをすると、光のさすほうに駆けだした。
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