りゅうの嫁取り8

2012.10.17.Wed.08:09
 家を出たのは夕暮れの頃だった。
 稲荷の社が見えてくると、千尋の足はぬいとめられたように動かなくなってしまった。水島に声をかけるのはやはり無神経だろう。
「なにしてんの」
 明るい声にはっとして横を向くと、赤い鳥居のしたに帽子を目深にかぶったすらりとした人がいる。
「リンさん?」
 男物をまとっているが、帽子のつばをあげて笑ってみせる顔は、千尋のよく知る人のものだった。
「その格好・・・・・・」
「ハクんとこに行くんだろ。あれには内緒で」
 あれ、というときニヤリとしてみせるので、千尋は落ち着かなくなった。
「あいつもかわいそうだよなあ。いとしの千に、はやくもふられちゃったのか。千、考え直すんなら今のうちだかんな。ハクの嫁になるより、この神社のお内儀さんになったほうが、ぜったいいいよ」
「もう決めたの」
 リンはおかしそうに肩を揺らした。
「ぜんぶ捨てて、ハクとどこに行く? その前にさ、あの堅物りゅうが、おまえを蛇の道に引っ張り込むようなまねをすると思うか? 今のおまえは、さぞやあいつを惑わせるだろうな。やあ、おっかしいな。あいつ、どんなツラしておまえを手放したんだか」
 ハクは、きっと、望まない。やさしいりゅうは、千尋の幸せを一番にねがっている。千尋が何を望んでいるのか、耳をかそうともしないで、ただ自分勝手に消えゆこうとしている。
「行きたいの。もう一度だけ、会えるのなら、会って、頼む」
「どう言うんだ」
「とにかく、言うことがあるの」
 リンは目をぱちくりしたが、一つ大きくうなずいた。
「じゃ、おれもついてくよ。はいはい、黙って見てますよ、このとおり、口もつぐんでね。さあ、そうとなったら早く行こう。くたばりかけてるりゅうを、拝みに行こうぜ」
 弾んだ声でリンは言った。



 電車に揺られ、駅に着いたのは夕暮れの頃だった。
 弾むような足取りのリンとはちがい、千尋は足を一歩前に進めるのにもだいぶ勇気を振り絞らなければならなかった。
 失うのが怖い。拒まれるのも、怖かった。
 幼い頃、不思議な世界で千尋を助けてくれた少年に、今思うと千尋は淡く恋心を抱いていたのかもしれない。つないだ手は千尋よりずっと大きかった。頼れるお兄さんのようで、なだめる声を聞いていると心が静まった。
 再会したときのハクは、見かけはあのときと同じだったけれど、千尋をさんざんどきどきさせて、自分だけ平気な顔をしていた。それがくやしくて、恥ずかしくて。
 会いに来て、真心を包み隠さず打ち明けてくれるのが、うれしかった。
(恋しい)
 胸にぴったりはまるのは、そんな気持ちだ。うっすら色づいた桜の花びらのように、風が吹けばすぐ散ってしまいそうなささやかなものだけれど、つもりつもれば、すべてを埋め尽くすように一つの思いでいっぱいになってしまう。
(伝えなくちゃ。もう一度)
 小さな社をくぐった千尋は、石畳の上を迷わずにすすんだ。
 祭りの夜でもないのに、提灯のあかりが一つきり、ぼうっと灯った。
 風が吹き、細い道を駆け抜けていった。木々がざわめく。
 乱れた髪を払いながら、千尋は細めた目をおおきくみはった。
 十歩ほどむこうに立ち尽くしたその人を、千尋は息をのんで見つめたのだった。
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