川べりで

2011.08.15.Mon.04:45
明け方にみる夢は、きまって煙と濃い血のにおいを連れてくる。
 輝に蹂躙され、滅ぼされたあの美しい産土は、もうどうあっても取り戻せない。父も母も、親しい人たちも。
 胸にあるのは痛みと、苦さだ。生まれ育った里が失われたとき、科戸王は剣の重さも知らない子どもだった。今思えば、十をすぎて子どもに甘んじていられるほど、皆に守られていたのだろう。
 おびえる哀れな子どもを、命を捨てて逃がした人を思うと、今でも身がうずく。なぜ何もできなかったのか。燃えさかる里に背を向け、暗闇の中をあてどもなく逃げることしかできなかった。
 王と呼ばれ、敬われても、どうしてもなじめないものを感じてしまう。里を捨てた後ろめたさを思い出すたびに、己を責めずにはいられない。
(泣いていたか・・・・・・おれは)
 王は両手で面を覆った。涙が何の役に立つ。輝への憎しみをさらに燃え立たせる怒りを胸に抱くべきだと、我が身の女々しさに腹を立てながら、科戸王はのろのろと寝床から身を起こした。
 心が乱れているわけはあきらかだ。昨夜、氏族の大巫女が、赤子のような輝の末子をさして、風の若子だと告げたのだ。輝への返す刃としてあれを役立てようなどと、正気の決断とも思えない。
(毒蛇を懐で飼うようなものだ。ああ見えて、やつとて輝が本性。いつ牙をむきだすかわからん)
 考えごとをするにも、室の暑さに息が詰まりそうだ。衣を軽くはおり、木刀を手に取ると王は外へ出た。まだ夜もあけたばかりで、頭上を見上げると藍色の空に取り残されたように星がひとつふたつ輝いていた。
 篝火のもとに立っていた見張りの兵は王の姿をみとめると、一礼して通路をあけた。せまい岩棚をくぐると、窪地の中の草原に出る。草を踏みしめ、涼しげな水音に引き寄せられるように歩いていくと、川の流れに行き当たった。風もよく通る静かな場所だ。
 王は構えると、少しのあいだ目を閉じ、鋭く吐き出した息とともに木刀を振るった。身にまとわりつく滅びのにおいを打ち払うように。そうして木刀を振るうと、すさんだ心が次第に落ち着いてくる。
 いらだちや怒りのあとに消えずに残ったものに気づいて、王は眉をひそめた。
(剣の姫)
 幽の勾玉の持ち主のことを、皆がそう呼ぶ。しかし、王はその呼び名がなぜか気に入らなかった。風の若子かなんだか知らないが、あの輝の末子と狭也が二人で一組の扱いを受けることを不当だと思えてならないのだ。
(ただの里娘として育ったものに、いまさら剣を持たせるなど)
 狭也もまた輝に親を里を奪われた。氏族の庇護を失い、輝のしきたりのなかで育ったものに、輝を憎めと言ったところで無理な話だ。
(・・・・・・それだけではない)
 狭也と稚羽矢を見ていると、胸がひどく騒ぐ。輝と闇、戦を重ね相入れぬ者同士がともにある姿を目にして、感じるのは怒りに近い感情だった。

 水を蹴る音が聞こえて、王は物思いを振り払った。ちょうど木の間を透かすように朝日が射し、水面をきらめかせた。浅い川床の小石に引っかかりながら流れてくるものがある。王は布の切れはしを、木刀の先にひっかけた。水を滴らせる布にふれようとしたところで、悲鳴ににた金切り声がした。
「だめ、それに触らないで」
 王は声の主を見るなり、ひどく驚いて声を失った。布を追って川水を蹴り立ててきたらしい人は、上衣を肩にひっかけただけで他には何一つ身につけず、きゅうに立ち止まったためにつんのめりそうになりながら、赤い顔で王をにらみつけていた。
「それを返してください」
 狭也は今にも消えてしまいそうな小さな声で言った。
「そなた」
 ほんの一瞬の間に、秘め隠されるべき闇の姫の肢体をすべて見て取ったことに、王は呆然として目を見開いた。
「洗濯物をひとつ流してしまいました」
 ふくらはぎまで水に浸かり、ほとんど喧嘩腰の狭也は、濡れ髪を振り立てた。
「そなたが洗濯を? 侍女に言いつければよかろう」
「水浴びもしたかったのです。それに、自分にできることまでまかせるのは、性分ではありません」
 まろやかな乳房と足の付け根の淡い茂みは、女と言うより娘のもので、強気な表情もあいまって、現のものとも見えないのだった。
「返してください。けがれです」
「けがれ?」
 布を手に取ると、狭也はぎゅっと目を閉じた。洗い落とされてはいたが、かすかな血のにおいを嗅ぎとって、王は得心した。
(月のものか)
「仕方あるまい、そなたは女人なのだから」
 川岸に上がった狭也は、衣のあわせをきつくかきあわせた。
(人には見せられんな。とくに剣の姫をあがめている人々には)
 羽柴の里で出会ったときの繰り返しを見るような思いで、王はため息をはいた。
「あきれておられるのでしょ。当然です。あたしも自分に腹が立ちますもの」
 つま先で立ち、ひったくるように王の手から布を取り上げると、狭也は目をそらした。
「まさか、どなたかがいらっしゃるとは思わなかったのです」
 隠しようもない恥じらいに身を縮める人を、王はなんとか慰めようと言葉を探した。
「悪かった。だが、拾ってしまったものはしようがあるまい」
「触らないでと言ったのに」
 怒った顔にも迫力がない。王は吹き出しそうになるのをなんとかこらえた。
「輝にとってはけがれでも、我らにとってはちがう。死もそれも、厭うものではないからだ」
 問うようにみつめられて、王は眉間にしわをきざんだ。どのような表情をすればよいのか見当もつかなかったのだ。
「わたしはそなたがうらやましい」
 狭也は思いがけないことを聞いたかのように王を見上げた。
「そなたは、新たな命を生み出すことができる。わたしは滅びを見ていることしかできん。失われた命を嘆いて剣を振るうことしかできん。それがはがゆく思えるときがある」
 科戸王は、早口で言い添えた。
「だから、恥じるな」
 狭也はふしぎそうに唇をすぼめたが、ややして笑顔になった。すこしひきつってはいたが。
「はい」
「だが、そなたは無防備すぎる。何かあれば見張りのものも罰を受けるぞ」
 王はもっともらしく咳払いをした。落ち着かない焦りを感じたのはずいぶんと久しぶりのことで、しかしそう不快なものでもないのだった。
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