りゅうの嫁取り5

2012.10.14.Sun.05:16
「うめえなんてもんじゃねえな、こりゃ」
 払子が床に落ちた。それを拾い上げたのは、白いしなやかな指だった。
「シャバの酒は、やっぱ、いっとううめえや!」
 棚の上に片膝をたてて座ったその人は、一升瓶に口をつけぐいぐいあおっていた。こぼれた酒が赤い唇を濡らし、細い首筋を流れていく。着流した衣から、胸元がのぞきそうだ。
 ようやく瓶をおいた人は、興味もなさそうに周りを見渡したあと、千尋にぴたりと視線をあてた。鳥肌が立つとはこのことだ。獲物をみつけた猫のような、輝く目だ。
「・・・・・・おまえ」
 それから眉間にしわを寄せて、叫んだ。
「なんだ、おい、千じゃんか」
「リン、さん?」
 間近でみつめてくる美人に、千尋はどぎまぎした。
「でっかくなったな。最初はだれかわかんなかったぞ。なんで、こんなにしょぼいとこにいるんだ? お父さんとお母さん、元気か」
「うん」
 烏帽子のとれたまま腰を抜かした水島の父と、助け起こそうとしている水島が気にかかる。彼らが招こうとしていたのは、リンだったのだろうか。
「リンさんって、神様だったの」
「神様? おれが」
 背中をたたかれる。音は大きいが、加減しているのかちっとも痛くない。笑顔も、あけすけな笑い方も、記憶に残っている小湯女とぴったり合致する。
「おれはね、ここの神さんの眷属ってとこだ。まあ下っ端ではないよ。神さん、ちょっと湯治にいくって。そんで、おれがかわりに鎮座ましますことになってな」
「聞いたことがない、そんな話は」
 代々神職をつとめてきた家人が、震える声でそう言うと、リンはにっと笑った。
「あー。おつとめご苦労」
 水島はうさんくさげにリンをにらんでいる。
「親父、これどうする」
「一応、お世話せねばなるまい」
 交わされる密談を聞き止めたか、リンは鼻を鳴らした。
「一応、ってなんだよ。心をこめてもてなせよ、コノヤロウ」
「リンさん、口悪い・・・・・・」
 舌を出したリンは、千尋に顔を寄せた。
「また会えて、うれしいよ」
 戸惑いながらも、おおきくうなずこうとした千尋のほっぺたを、リンはひとなめした。
「リンさん!」
「ずいぶん泣いたな。おまえを泣かせたのは、どこのどいつだ? 姉貴分として、黙っちゃいられないよ」
「べつに、いいんです」
「ふうん。なんだ、おもしろい匂いをつけてんな」
 きょとんとする千尋を、リンはやさしく見下ろした。
「あいつの匂いだ。ハクのやろう、おまえのことを思い出したのか?」
「ハクは、もう行ってしまったの」
「湯治か」
 千尋かすれた声で言った。
「・・・・・・消えてしまうつもりなんだと思う」
 リンはほほえんだ。
「それがりゅうのけじめの付け方というやつだね。千、あいつのことはあきらめな。かわりに、こいつと一緒になりゃいいよ」
 水島のシャツの襟をつかんで、リンは千尋の前に引き出した。
「ちょ、この!」
「こいつは、神社をつぐんだろう。おれも、役目が終わったらずっとこのあたりでのんびり暮らすのも、まあ悪かない、なんて思ってんだ。おまえも一緒にいろよ。ハクのやろうなんかと連れ添うより、ずっと楽しいぞ」
 むちゃくちゃだ。ただ、ひとつ引っかかることがある。
「ねえリンさん」
 千尋は詰め寄った。
「連れ添うって、そんなことができるの? わたしがハクと一緒にいるために、何かできることがあるの?」
 リンの目が泳いだのを、千尋は見逃さなかった。
「リンさん」
「あー、眠い。眠くて死にそうだ。こちとら、暇をもらってからずっと、ここまで歩き通しなんだからね。疲れた疲れた」
「リンさん!」 
 千尋の声があたりに響いた。
「寝る前に答えて。ハクが消えずにすむ方法はあるの?」
 目をいからして、リンはにらんできた。
「聞いたとして、おまえにできんのか? ・・・・・・りゅうの花嫁になりゃ、ハクは消えずにすむよ。おまえが、あいつをこの世につなぎ止める錨になればね」
 千尋は目をみはった。
「りゅうの連れ合いは、人としては生きられない。おれらと同じ、生死も老いも病も関係ないあちら側に属するものになるんだよ」
 リンは続けた。
「お父さんもお母さんも、親類縁者もみんな捨て、ハクを選べるか? おまえの未来をハクにぜんぶやることなんて、できんのか? あとで後悔したって、やり直しはできないんだよ」
 頭をなでられる。千尋は何も言えないまま、唇を噛んだ。
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