きょうの曙

2011.08.10.Wed.11:10
 いったい、どのように扱えばよかったのだ? あの荒ぶる海原にひとしい末の弟を。
 宮の奥に籠め、誰の目も触れられぬようにした。けれど夢をみることまでは禁じられなかったのだ。
(よもや宮を捨てて闇につくなど、思ってもみなかった)
 深い考えもなく、狭也を氏族のもとに送り届けるなどと口にして。
 あの子の輝の御子としての資質は、闇の人々にとって相いれぬものだ。おそれと憎しみはいつか火を噴き、稚羽矢を害するだろう。その見立ては間違っていなかった。
 小さな疑いと恐怖にたやすく惑わされる心弱き者たちをたきつけると、あっけなく彼らは稚羽矢を薄暗い土牢に閉じこめた。そして流された血に我を忘れ、稚羽矢をつるしあげようとした。
 それでもなお、稚羽矢は狭也との約束にこだわり帰ろうとはしなかったのだ。
(約束など・・・・・・くだらぬ)
 あの子は、死にこがれるように、闇の娘にひかれていることに気づいていないのだ。もっとも、生まれたままの赤子にひとしい無知な子が、恋などしるわけもない。
(なにも知らずにおればよかったものを)
 わが懐で、せんない夢をみてまどろんでいれば、何かをうしない泣く痛みも知らずにすんだろうに。
「月代といい、あの子といい。水の乙女などに和されおって」
 知らぬ間に物思いにふけっていたことに気づき、照日王は苦く笑った。雪野に立ち空を見上げる狭也は、それに気づいたか振り返った。やややつれたその頬は、しかし冬の冷気のためか赤みが差している。
 雪の積もった明け方に外に連れ出したのは、ただの思いつきだ。山の端から差し染めた光に王は目を細めた。日のもとで、じっくりとこの娘を眺めておきたかった。
 とるにたらぬただの娘。そう長くも生きず、たやすく病におかされ、老いしなびて死んでいく。水の乙女という通り名はすずやかだが、なんのことはない。
 すぐ目の前に迫る死にも気づかず、のんきに空を眺めている娘は、あまりに無力だ。
「愚かだと思われますか」
 ふいに問いかけられて王は眉を動かした。狭也がこちらをじっとみつめていた。
「あたしたちの抗いを、情けなくみにくいことと思われますか」
 おもしろいと思った。狭也が口を開くと、際だつような清新な雰囲気があらわれて、印象ががらりとかわる。
 それはまなざしのせいかもしれなかった。従順なようでいて、まっすぐに切り込むように照日王を見るものはそうはいない。月代王でさえ、こうまで感情をあからさまにはしない。
 思いがけず愉快な気持ちで王は笑んだ。
「ああ、愚かだ。この雪を見ろ。足跡をつけても、雪が溶ければ無になる。それを知りながら、また繰り返す。まさに児戯にひとしいではないか。そなたらのしていることは全くの無駄だ」
「溶けた雪とあらたに積もる雪は別のものです」
 狭也は静かに言った。
「同じように見えたとしても、全く変わりなく繰り返されるものは一つとしてないのです。あたしは、あたしです。愚かだろうと、それしか知らないのです」
 照日王は息を吐いた。
「それがそなたらの強さというものなのだろう。わたしも認めるのはやぶさかではない。今だからこそ言えることだがな」
 きょうの曙は、たしかにこれまで繰り返されてきたどんな朝よりも美しい。すべてのケガレが雪の下に覆い隠され、白銀がやさしく日を照り返している。
 ついぞ感じたことのなかった疲れをおぼえて、わずかのあいだ王は目を閉じた。
 父神の御心を知ってから、我が身もあやふやなものに思われてならない。なすべきことがわからないということは、耐えがたい苦痛だった。まずい酒をむりやり飲み干すような。いいや、もっと悪い。
 この感情をなんと呼ぶのだ? 虚無か。それとも、怒りか。
 怒りであるほうがいい。空虚さにさいなまれるより、怒りに身を焼いているほうがどれだけ心地よいだろう。
 しかし、闇の女神のもとに狭也を送ろうと決めた今も、むなしさと惑いは消えない。
(なんたることだ)
 我が手にかけることを思ってはじめて、照日王はこの娘を少し気に入っていたことに気づいたのだった。
(せめて苦しませずに送ってやろう)
 この雪の上に血の赤をまいたら、どのように映えるだろう。稚羽矢はそのときがきたら、どうするだろう。泣くか、激怒するか。それとも、憎悪するか。
 のほほんとした弟に激しい目でにらみつけられることを考えると、ほんの少しだけ気が晴れた。
(憎めばよい。憎め。わたしは無ではない)
 このうえなく美しくやわらかに王は笑った。 
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