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りゅうの嫁取り

Category千と千尋の神隠し
 何度も開いては閉じた文を、あぐらをかいて読んでいたところに、風が吹き寄せてきた。
 乱れた髪をかきあげながら、こっそりリンはため息をはいた。

 日が落ちるのはあっという間だ。雲海に吸い込まれるように沈んでいった夕日を見送っていると、どうも心細いような気持ちになる。
 灯籠がぼうっとともり、かまどの番人が寝ぼけてくすぶった火を起こしにかかる。調理場ではごちそうが皿に並べられるのを待ち、団子の一つでもくすねた下っ端が、尻を蹴られるかどやされるかしていることだろう。
 油屋のやかましさ、にぎやかさは決して嫌いではないが、客をこうしてねぎらう身分になってみると、どうも性に合わない。物憂さばかりが腹の底に積もるようだ。
 こき使われながらも、上役の目を盗んでいろいろおいしい思いができたあのころが、なつかしい。今は、それなりに敬われはするものの、誰もリンと一緒に笑ってはくれないのだ。客の取り合い、いざこざは毎日のことで、いらぬ恨みをかうこともままある。湯女の処世も大変だ。
(なにしてっかな)
 客が眠ったひと時、この静寂のとき。ふと千のことを思い出す。
 どじでどんくさい人間の子ども。ところが、驚くことに極悪冷血のりゅうと知り合いで、わが身も省みないで奴を助けるために必死になった。しまいには湯婆婆まで黙らせて、二人で手に手を取って駆けていったのだ。
(ちびもいくらかでかくなったかな)
 千のことをすっかり忘れてしまったハクのことは、いくらか気の毒だとは思った。
 怒り覚めやらず、追っ手を差し向けようとした湯婆婆の前に立ち、ハクは言ったのだ。
「覚悟はできている」と。
 がめつい湯婆婆が、ハクを八つ裂きにするはずがない。ハクはこの上なく有能で、使えるコマだ。気まぐれだが情にもろい油屋の者たちの反発もあって、湯婆婆はハクにとどめをさすことはしなかった。
 ハクは千を忘れ、これまで以上に愛想も隙もなく職務につとめてきたというわけだ。
 千がいなくなった油屋は、元通りになっただけなのに、どこか違って見えた。油屋では一日も十年もあっという間。繰り返される昼と夜にかぎりはない。
 リンがしなを作れるくらいになったのだから、ハクとていつまでも子どものすがたではない。
 お姉さまがたの密かな恋心を、油屋じゅう駆け回って集めたなら、極上の黒焼き二十本ぶんくらいにはなるかもしれない。
 広い背中に手を這わしたい。きれいなまなざしに、じっと見つめられてみたい。唇が睦言をささやくのを聞きたい。しなやかな腕のなかに、きつく抱きしめられてみたい。
 ひそひそ話を思い出し、ちょっと気分が悪くなったので、リンはこめかみに手を当てた。
(あんなの、おれの趣味じゃねえけど)
 冷たいハクの目はどこか焦りを宿して見えたものだ。「ざまあみろ」と笑ってやりたいのに、きっといぶかしげに見返されるだけだろうと思うと、おもしろくもなかった。
(元気でやってるかな)
 湯婆婆がハクを解き放ったとき。空に向かってどんどんのぼってゆくりゅうの姿を見たのは、偶然だ。眠れずに遠くの町を眺めていたリンは、矢のように飛んでいくりゅうを、たしかにうらやましいと思ったのだ。
「ほしいもの、なんでもやろう」
 そのとき、寝ぼけた声がした。夕べの客だ。
 リンはふっと息を漏らした。
 寝汚いやつ。そうは思っても、しいてやさしくからだをゆすってやる。仮寝のひととき、こうまで熟睡する客というのもめずらしかった。ようやくめざめた客は、じっとリンをながめた。
 夜がくれば、来た客は出て行き、またどっさり疲れを背負った新手がやってくる。うんざりだった。
「言え、ほしいものを」
 寝ぼけた声でうなった客は、リンの腕をひきよせて口を吸おうとした。まったく、ぞっとしない。
「ありゃしません」
 仕事はおしまいだ。やんわり顔を背けると、姉様がたから習った流し目をくれてやる。
「わたしの欲しいものは、お客さんには出せませんよ」
「どうしてだ」
「わたしも、何が欲しいのか、わからないんですもの」
 男は笑った。その声には張りがあって、いくらか傲岸な感じもする。
「また来よう。そなたに忘れられんうちにな」
 ほのぐらい部屋の中、ぐっと顔を近づけた男は、おかしさをこらえるように目を細めていた。軽い口づけを盗まれて、おもわず眉をひそめる。
「お約束・・・・・・ね」
 床を共にした客の顔など、いちいち覚えてはいられない。乱れた衣のすそに滑り込もうとする手を軽くつねって、気を取り直したリンは艶と笑ってみせる。たもとにしまった文が、かさりと音をたてた。
 そのときだ。
 明け方の空を飛んでいくりゅうの姿が、目に浮かんだ。
(ちくしょう。まっぴらだ。ぜんぶ、ぜんぶ)
 つきあげるように、こう思った。
 すべてに飽きていた。客あしらいも、しなをつくるのも、誰彼となくこびて見せるのにも。
 これまでさんざん面倒な仕事を押し付けてきた父役やらが、へんにやさしく色目を使ってくるのにもうんざりする。仲間だと思っていた同室の女たちが、一線引いて裏でぺちゃくちゃ喋くるのも気に食わない。
(もういいや。いっそ、いっちまえ)
 故郷の古い社の守り役を頼む。文にはそうしたためてあった。
 リンが引き受けなければ、ほかの誰かにお鉢は回る。守り役など退屈で、油屋ほど稼げもしない。しかし、どこかへ行きたいという気持ちは抑えがたくて、苦しいくらいだった。
(いくか・・・・・・? よし、いこう)
 そう思い切ると、ふしぎと胸がすっきりとして、晴れやかになった。
「・・・・・・約束はやめておこうか」
 男は布団に寝そべったまま、驚いたように、ささやいた。
「どこかへ行くのか。まことに残念なことだ。そなたを気に入っていたのに」
 リンはしのび笑った。
「あらあら、お客様、もうお帰りの時刻ですわよ」
「そなたと寝れぬでは、つまらん」
 そう悪い客でもない。顔も悪くないことだし。ひとつ気になるのは、故郷の大神と似た匂いがするということだ。それほど遠縁でもないのかもしれない。
「縁があったら、またお会いできましょう」
 そうだ。遠慮がちでも、艶っぽくもないが、こうして頬をゆがめるようにして笑うのが、自分の笑みなのだ。

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