りゅうの恋9

2012.09.08.Sat.04:19
 ただ静かに、その人はよそをむいて目を伏せていた。
 頬にかかった髪が、風にゆれる。あの祭りの日の装いのまま、ハクは千尋の前にいたのだった。
 考える前に千尋は、くつもはかずに庭に降りた。
「ハク」
 幼い横顔は今にも泣き出しそうにゆがんでいた。
 聞きたいことは山ほどある。それでも、そのすべてが、口にする前に消えてしまうのだった。ひざまづいた千尋は、両手でぎゅっとハクの頬をはさんで、真っ正面を向かせた。
 涙は浮かんでいないのに、悲しみをあふれさせている瞳は、千尋をおずおずとみつめたものの、ふいとそらされた。
「わたしを見て」
 千尋は彼の目の前に、うろこをかざしてみせた。
「置いていったでしょう。あなたは、わたしのところにきたのよね」
 ハクはしぶしぶ千尋を見た。
「しなければよかった」
 眉根を寄せて、ハクはささやいた。
「いまこそ、それがよくわかった」
 ハクはわびを入れるように、頭を下げた。その仕草は、どこかこっけいですらあった。
「こわいんだ」
 冷たい氷水に体を浸しているかのように、ハクの唇は青ざめていくらかふるえているようだった。千尋は彼の手をつかんだ。いまにも消えてしまいそうにみえたのだ。
「ハク、ねえ、あなたとどこかで会ったかしら。どこかであなたと手をつないで歩いた気がする。あなたと、話した気がするの」
 ハクの髪をおそるおそるなでると、川面に手を浸したときのようにすっとした冷たさがしみるようだった。
(ハクは、この子からは・・・・・・水のかおりがする)
 冷たい水の底の、つるつるした石。青草のにじむような夏の川べり。
 足をすべらせて落ちた川のことが、きゅうに思い出された。
 押し寄せる波が砂をえぐりさらっていくように、もどかしさが消えていく。
 つよい風が吹いて、霧がさっぱりと晴れたようだ。

 千尋は、そして、思い出したのだった。
「ハク」
 なぜ、彼を思うとこんなに胸が痛んだのか。なぜ触れあうだけで泣きたいような気持ちになったのか。
 それは、彼がハクだったからなのだ。
 手ににぎりしめたうろこが、急に熱くなった。思わず手を離すと、うろこはちいさな青白い炎をあげて、すぐに消えてしまった。
 千尋は男の子をきつくだきしめた。そうせずにはいられなかった。
「千尋?」
 ハクは千尋の肩あたりに顔を埋めたまま、しずかに笑った。
「そなたを近しく感じる。わたしの気のせいだろうか」
 なぜ忘れていられたのだろう。
 涙がこぼれた。
 ハクは会いに来てくれた。約束を果たしに、来てくれたのだ。
「魔女のまじないが、解かれたのはわかっている」
 双子の魔女の姉、銭婆のことだ。
 祭りの日、切れた髪どめのことを千尋は思った。
「そなたの髪どめは、そなたを守るために働いていたんだ。忘却は、身を守るよろいだ。そなたがあちらの世界に心を残したままでは、危険だったんだ」
 千尋をみつめたハクは、問うように唇をむすんだ。
 手のひらをそっと合わせると、くすぐったくて、うれしくて、わけもなく笑い出したくなる。
「そなたのためだった」
 ハクは今度こそはそらさなかった。
「忘れなければ、そなたはこちらで生きられなかったろう。あちらでもない、こちらでもない。あわいの世界を漂うものになりかねなかった」
「ええ」
 嗚咽をこらえながら、千尋は言った。
「わかるわ、ハク。大丈夫。忘れても、消えたわけじゃないもの」
 ハクはやさしくうなずいた。
「思い出したんだね」
「もうずいぶんたったわ。わたし、十六よ。背もあなたより大きくなってしまったわ」
「人の子は、生い育つのがはやいものね」
 すっかり落ち着いたハクの様子を見ていると、なんとなく気が抜けるようだった。
(何を期待していたんだろう)
 本当の意味で再会できたというのに、ずいぶんあっさりしている。
「ハクは、いまどこにいるの。まだ・・・・・・油屋にいるの?」
 首を振ると、肩までの髪がゆれた。細い首をかしがせて、ハクは笑った。
「帳場役は免ぜられたよ。いまは、あるお社にいる。そろそろ身の振り方を考えないとならないんだけど」
 そうは言っても、ハクはどこにいくつもりなのだろう。
「そなたとこうして会えたのだから、よしとしなくてはね」
 にっこりと笑う顔を、戸惑ったまま千尋はみつめた。
「これから風にとけ水に漂って、広がりに広がりしているうちに、わたしは消えるしかない」
 耳を疑った。消える? よしとしなくては?
「千尋、どうかした」
「消えてしまうつもり」
 ふと、越えられない川の両岸に立たされたかのように、ハクが遠く感じられた。
「そうなら、なぜわたしにうろこをくれたの。なぜ約束をしたの。わたしとまた会いたいと、そう思ってくれたからじゃ、ないの? こうしてさよならを言うためだったの」
 ハクは悲しそうに目を伏せた。
「わたしのわがままで、そなたを不幸せにすることはできない。人の間で人と添って生きるのがそなたにとっての幸せだ。わたしが関われば、よくないことが起きる」
 手のひらを返されたようで、くやしかった。
「あなたと一緒にいるのは、むりなことなの」
「そなたの言葉、うれしかったよ」
 なだめる声でハクは言った。
「とても、とても」
 それでも、ハクはきっと行ってしまうのだ。
「そなたのそばにいたい。でも、苦しみを背負わせたくない。神がほしいと思うものは、一度手に入れたら二度とはなせないから。欲しいものは、遠くから眺めるだけですませなければならなかったのに」
「そばにいて」
 千尋は声を上げた。目のまえからこの人が消えて、二度と会えなくなることがこわかった。
「お願い」
「千尋」
 ぼうぜんと居すくんだハクは、あたりをはばかるような小さな声で言った。
「おやめ。お願いだから」
「いや。やめない」
「千尋」
 その声は、もはや懇願だった。
「よく考えてごらん。今はよくても、そなたはこれからきっと、後悔するだろう。あの者も言っていたように、わたしは悪くもなければ、良くもないものなんだ、そなたにとって」
「いいえ。ハクは、ハクよ」
「千尋」
 困惑したように表情をくもらせたハクを、千尋は不安にゆすられるような思いでみつめていた。
 幼い頃、不思議な世界で見聞きしたこと。生まれて初めて感じた恐怖。ハクの手助けがなかったなら、千尋は今ここにいなかっただろう。
 十歳の千尋が感じた想いは、恋と呼ぶにはあまりに淡かった。
 けれど、今はちがう。
 はっきりと、揺るがない気持ちがたしかに胸のなかにある。
「ハクがりゅうでも魔法使いでも、神様でもなんでも、わたしはかまわない。行くところがないなら、わたしのそばにいてほしい。いやでなければ。きゅうくつでないなら」
 ハクはまばゆそうに目を細めた。
「だめ?」
 長い沈黙のあと、ようやくかすかに彼は首をふったのだった。  

(終)
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