りゅうの恋6

2012.09.05.Wed.07:42
 悲鳴があがる。窓を閉めることなど、だれも思いつかないようだった。机は倒れ、身を伏せたクラスメイトたちは悲鳴を上げた。
 千尋は顔をおおっていた腕を、ゆっくりとはずした。
 目を開けるのも難しかった。立ちあがった拍子に、それまで腰かけていたいすが倒れた。窓べりをしっかりとつかんだ。磨り硝子をすかしてみたように、はじめそれはにじんで見えた。

 よく、ごらん。そなたは目がいいといったね。

 よく、聞いて。そなたは、なんとかという耳をもっているのでしょう。

「だれ」
 千尋はたずねた。知っているようなのに、思い出せない。もどかしくてたまらなかった。
  
 そなたを慕わしく思う者の声を、よくお聞き。

 そなたを恋うあわれなりゅうの、目をごらん。

 白いうろこがきらめいた。
 長い尾が、ゆらりと揺れる。
 澄んだ川底のような深い色をした瞳は、理知をたたえて穏やかだった。耳まで裂けた口には、尖ったきばがずらりとならんでいる。
 それでも、ふしぎと怖くはなかった。
 千尋は手を伸ばし、鼻先に触れた。
「りゅう・・・・・さん?」
 はだは堅くしなやかだった。つま先立ちをして、千尋は手のひらでつのをなでた。つのは驚くほどふわっとしていた。りゅうは、のどをふるわすように、低くうなった。
「ごめんなさい。わからないの」
 水がさかまき、荒れ狂うように、りゅうの目が暗くにごったような気がした。人のように表情をきざんだわけでもないのに、涙などないのに。まるで泣いているようだ。
「ごめんなさい」
 胸が苦しい。張り裂けそうだ。ほかに言いたいことがあるはずなのに、口をついて出てくるのはその言葉だけなのだった。
「千尋」
 ささやかに、でもしっかりと呼ぶ声がする。
 ふと思い当たった。
 りゅうは、あの子と同じ目をしている。
 あの子は、こんな目で千尋をみつめてはいなかったか。
 苦笑いと、不安と、もどかしさを秘めた目は、千尋の胸を揺さぶった。
「ハク」
 りゅうの目が眠たげに細められた。なぜここでハクの名が口から飛び出したのか。あの子は男の子だ。りゅうじゃない。
 風の音が遠い。
「ハク」
 千尋は叫んだ。りゅうの気配が遠ざかる。
 ……おろかなりゅう。
 ……人に恋したぶざまなりゅう。
 胸にしみてくる悲しみは、千尋のものではない。
「わたしのそばにいて。ずっとわたしのそばに。会いに来ただけで、帰るなんてだめ」
 千尋は叫んだ。
「ニギハヤミコハクヌシ、行かないで。あなたが、好きよ」
 頬に触れるものがあることに千尋は気づいた。
 白い芙蓉のような、脈の透けてみえる花びらだ。手につかむといつのまにか、千尋の手はいくぶんきゃしゃな誰かの手を握っていた。
「千尋」
 苦しげに眉を寄せた彼は、それでも笑って見せた。
「ハク」
「そなたが呼べば、奇跡が起きる。わたしにとって、そなたは欠いてはおけない大切な人なんだよ」
 ハクは千尋を見上げた。
「それだけは、わかってくれなくては」
 千尋はうなずかなかった。ハクは困ったようにほほえむと、一足後ずさった。
「約束をしよう。また、会うと。こんどは、うつつで」
 彼の姿はかき消えて、あとには千尋が一人残された。
「待って」

「待たんぞ、荻野」
 丸めた教科書で頭を軽くたたかれ、千尋ははっとして顔を上げた。
 しのび笑う声に頬を赤くすると、小さな声で千尋はつぶやいた。
「すみません」
「夏休みボケはなあ、いいか。はやめに追い出しとけよ。荻野を笑ってるおまえたちも、他人事じゃないぞ。明日は楽しい小テストだ」
 ブーイングが巻き起こった。
 千尋はまわりを見回したが、穏やかならぬ晩夏の日差しのさしこむ教室は、きれいに机も整列し、クラスメイトたちは何事もなかったかのように座っている。
(夢)
 ぼんやりと教科書に目を落としたとき、千尋ははっとした。
 どこから舞い込んできたのか、白い花びらが一枚のっていたのだ。
 手につまんでみると、それは花びらよりかたく、しなやかで、すべすべしていた。
(りゅうの、うろこだ)
 夢じゃない。少なくとも、このうろこは、本物だ。
 あのりゅうは、ハクは、千尋のもとを訪ねてきたのだ。
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