濡烏

2011.08.06.Sat.11:11
 作中、鷲乃庄にて

 一目見て、恋におちた。
 それはもう、ぶざまなくらいにあっけなく。でも、心に浮かんだ思いを顔に出さずにいるのは得意だから、けっして彼女に気づかれることはなかっただろう。

 長い旅をしてきた。輝に追われ、ときに身を隠しながら。そしてようやくたどり着いた村に、生まれ変わりを果たした同胞がいると氏族の大巫女、岩姫が予言をしたのだ。
 それも、欠いてはおけない闇の巫女姫、水の乙女の生まれ変わりだ。
 一行に先んじて飛び石の渡しに足をかけた鳥彦は、水を蹴りたてる音に気づいてそちらへ顔を向けた。
 楽しげに駆けてくる娘は、どこにも憎むべきところが見あたらなかった。腰まで伸びた豊かな髪を揺らし、野良着からのびた健やかな手足を思うがままに動かしている。そうすることが当然で、あるがままがもっとも美しい若い獣のようだった。はじけ飛ぶ水が頬にかかり、彼女はそっと目を細めた。
 恐れのほかにこうして身が痛むことがあるのだと、鳥彦ははじめて知った。うるさく鳴る胸をどこかうっとうしく思いながら、小蛇のように川に流されてきたひもを拾い上げた。
 まっすぐに見つめると、狭也はひどくうろたえたように身構えたのだった。たしかに、旅に旅を重ねてきた、お世辞にもきれいとは言えないみなりの者を恐れないわけがない。ふいにおかしさがこみ上げてきて、鳥彦は笑った。
「このひも、あんたの? ほしかったら上がってきなよ」
「かえしてよ。どういうつもりなの?」
 その声を聞いて、鳥彦は久方ぶりに楽しいという気持ちを思いだしたのだ。すぐに返すつもりなどなかった。もっと怒らせて、もっと話す声を聞きたい。なにしろ、ちっとも恐ろしくなどないのだ。
 子犬がしっぽを踏まれて怒るのを、片手であしらうように鳥彦は笑んだ。
 狭也はすこしだけひるんだように唇を噛んだ。薄紅の桜の花びらのような唇がしろくなる。泣くか、逃げるか。さあ、どっちだ。
「それをかえしてちょうだい。あんたがひろったのは、あたしのひもよ」
 鳥彦の目の前に手をつきだして、決然と言ったのが思いがけなくて、びっくりしたのを覚えている。
 今思うとまことに彼女らしいと鳥彦は思った。

「あら、あら」
 偵察のかえりきゅうな雨に降られて鷲乃庄に帰った鳥彦は、すぐさま狭也に抱えあげられた。それは望み通りのことで、ささやかなわがままというものだった。
 偵察の結果を開都王に報告するのが重要な役割とはいえ、鷲乃庄へついたばかりでどこか身の置きどころのない風の狭也のほうが気にかかる。
 少しでも彼女の笑んだ顔を見たいと願うことは、そう悪いことではないだろう。
「ずぶぬれじゃないの。風邪をひくわよ」
「鳥が風邪をひくって、聞いたことがある?」
 狭也は笑った。しかし、どこか痛むかのような笑い方だった。
「拭いてあげましょう。さあ、ひざの上においでなさい」
 やわらかい膝は、子どもの頃に感じた母のぬくもりを思い出させた。かわいた布で、狭也はていねいに羽をふきはじめた。
 心地いいような、落ち着かないようなどっちつかずの気持ちに、鳥彦はやや取り乱して羽を動かした。滴が頬に飛んだようで、狭也は声を上げた。
「動かないで。拭けないじゃないの」
「もういいよ。すぐ乾くし」
 狭也は鳥彦をのぞき込むようにして笑うと、くちばしを人差し指でつっとなでた。
「わ」
「なあに? 痛かった」
(わきまえてほしいよな、こういうとこ)
「見た目は烏でも、中身は人なんだ」
 きっと狭也は忘れているのだ。唇をなでられるに等しいことをされて、それが好ましい人ならばこそ、気が狂いそうなほどもどかしい。
 鳥彦は大きく羽を広げると、驚いて手を離した狭也から急いでのがれた。
「忘れないわよ。だれが忘れるものですか」
 独り言のように狭也はつぶやいた。
「狭也?」
「どんな姿でも鳥彦は鳥彦だもの」
 こみ上げてきたのは、いとおしさに間違いない。そして、人の身であったころに近しかった、手に余るいやしい感情もついてきた。ただそれは水のように薄いもので、わき上がってきたかと思えば、すっとどこかへ溶けていく。
 この身は、複雑な感情を保てないのやもしれない。
 この手はもう誰かを抱き寄せることはできない。すぐそばで泣く人のほほに、一筋こぼれた涙を唇ですくうこともできない。
「そうさ。あんたも、村娘だって采女だって巫女だって、狭也は狭也だ」
 泣き顔のしたから笑顔がのぞき、鳥彦は心底ほっとした。
「ありがとう。鳥彦」
 難しいことを考えるのは、やめだ。
 この翼で、この人のためにまたひと働きしてやるのもおもしろい。ただ、それだけだ。

 そしてたまには、やわらかなひざの上で羽を拭ってもらうのだ。
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