りゅうの恋4

2012.09.03.Mon.09:33
「あの」
 急いで手を引き抜き、千尋は逃げるように玄関への階段に足をかけた。
「おやすみなさい!」
 ドアを開ける前にちらと振り返ると、水島はかるく手を振った。頭をさげざまにドアのうちに滑り込み、千尋は後ろ手に閉めたのだった。
「どうして、こうなるの」
 おまえがそう言うなら、ってなんのことだ。まったく心当たりがない。それに、ついてる、というのも気になるし、なんだかこわい。
 腕に鳥肌が立っている。
「おかえり、早かったね」
 顔を見せた母に、千尋はたずねた。
「お母さん、わたし、なんかついてる?」
「キスマー・・・・・・」
「だあっ! もう! ふざけないで。真剣なのよ」
(つきあおうなんて、生まれて初めて言われた)
 困るというより、気が抜けてしまった。
 水島のことはきらいではない。
 正直に言うと、すこし意識していた。祭りの日をなんとなく落ち着かない気持ちで指折り数えていたのは本当のことだ。
 それでも、思い浮かぶのは、別の面影。
 女の子のような髪をした、古風な装いのふしぎな子。
 履き物をぬぐとき、千尋ははっとした。痛めたはずの足のことをすっかりわすれていたのだ。
(そっか、薬)
 よく効く薬というのを、どうやって塗られたかも思い出して、いても立ってもいられなくなる。
「千尋、なにかあったの?」
「なんでもない」
 自分の部屋に戻った千尋は、部屋の電気もつけずにベッドに座った。
(へんなの)
 足は、もうちっとも痛くない。
 かわりに、胸が苦しくてきしむようだ。
 あのときと同じだ。幼い日のある日の出来事を、思い出したときと同じ切なさが、染み出すように涙となってこぼれた。
 千尋はそっと唇をしめらせた。吐息のなかにまぎれたのは、あの子の名前だ。
「にぎはやみ、こはくぬし」
 呪文のような名前を、今度ははっきりとつぶやいてみた。
「ハク」
 胸がおどる。いいや、気のせいかもしれない。
 ゆかたのすそがはあけるのもかまわず、階段を駆け上がってきたから。
「また会えたね」
 こぼれたつぶやきに、千尋は自分でおどろいた。
 あの子と会うのは、今日がはじめてのはずだ。
 まっすぐな視線と、どこかもどかしそうに寄せられた眉。のばされた指が頬に触れたとき、どうして「なつかしい」なんて感じたのだろう。
 ベッドに倒れ込んだ千尋は、目をとじた。
 天井にむけて、手を伸ばしてみる。
 そのとき、窓から風が吹き込んできた。千尋の手をすずしい夜風がなでていく。

 風音が自分の名を呼んでいるようで、その夜はずっと寝つけなかった。
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