きみのこえ7

2012.08.13.Mon.10:00
 川におちたとき。
 千尋は、少しもおそれていなかった。ただ、沈み流されながら、川面のきらめきをみつめていた。
 ふしぎだった。人は死をもっともおそれるものだ。なのにその子は何かをつかもうと手を伸ばしたのだ。助けを求めたのではない。おそらく、光のきらめきに触れようとでもしたものか。
 ちいさな口からこぼれる息が、うずに飲み込まれ消えてしまうのが、心から惜しいと思えた。だから、理をすこしだけ曲げて、その子を川岸に押し寄せてやった。
 くつの片っぽうだけは、返し忘れてしまったけれど。いいや、返したくなかったのだ。ぷかんと小さなくつが川に浮いているのが楽しかった。

 千尋があちらの世界にあらわれたとき、一目でわかった。
 名を奪われたハクが、ただ一つ思い出せたのが千尋のことだ。川とのつながりを持つ娘があらわれなければ、ハクは名を取り戻せなかったはずだ。千尋が魔女の世界の秩序を乱さなければ、きっとまだハクは油屋に縛られたままだったろう。

 ハクはとん、と地を蹴ると、風に乗って空をとんだ。
 木立の合間に、娘があわてた様子で駆けていくのをみつけた。
(千尋)
 どうして忘れていられたのだろう。
 彼女が名を呼んだとき、すべてを思い出した。
 ハクが湯婆婆に差し出した記憶。いつの日かハクの中に落ちてきた、小さくてやわらかな、人間の子どもとの出会い。
 川をうしない、魔女の弟子という名の操り人形にまで落ちたハクは、恨みに胸を焼かれながら、油屋にとどまるしかなかった。騒がしく猥雑なあの場所は、忘れ去られ捨てられた神にとってなんとふさわしい場所だったことか。
 ずるがしこい者たちを束ねるには、己もそれ相応に世慣れねばならぬと気づいた。日々、少しずつ何かが失われていくのがわかった。それがわかったとしても、止めるすべなどしらなかった。じきに、何を奪われたのかすらもあやふやになってしまったのだった。
(千尋!)
 きっと会えると、そう約束したのは、うそではない。
 千尋がトンネルをくぐれば、油屋での出来事を何もかも忘れてしまうことはわかっていた。承知の上だったのだ。ハクだけは忘れずに覚えているつもりだった。
 ハクの本性は水だ。水はどこにでもある。生き物の体を流れる血潮にすら。たとえ千尋の記憶がなくなっても、ハクが覚えてさえいれば、きっといつの日かこっそり会いに行けるにちがいないと。
(恨むまい)
 油屋の主は、千尋に今後一切手を出さないという約束をするかわりに、千尋にまつわる記憶をすべて封じ込めたのだ。あれだけ胸に刻まれたたいせつな面影を、自分はなんとあっさり忘れてしまったことだろう。
 青い流水模様に、白い花を散らしたゆかた姿の娘を見たとき、心は少しも動かなかった。足を痛めて迷い込んだのは気の毒だったが、蜘蛛に話しかけたりしなければ、きっとそのまま見送っていたにちがいない。
 ふつうの人々は、ハクに気づかない。同じ場所にいようとも、存在する層が違うため、ふつうは彼らにハクの姿は見えないし、声も聞こえないはずなのだ。
 彼女は、名を聞いた。
 そして、ハクは答えたのだ。
「こはくぬし」
 彼女の口から紡がれた真名が、瞬きをひとつする間にすべてを取り戻させてくれた。
 承知していたはずなのに、この上ない状況で再会できたというのに。
(わたしは、これほど欲深い)
 何もかもを忘れている千尋が憎らしかった。手を伸ばせばすぐそばにいる人が、よそよそしく顔を背けるのがつらかった。
(待ち人・・・・・・おのこか)
 「それ」のために、ゆかたを着て、はき慣れぬ草履で足を痛め、祭りに行こうと気を急かしているのが腹立たしかった。潤んだ目でにらまれたとき、我を忘れそうになった。
 わたしはハクだと。そなたが名を取り戻させてくれたのだよ、と。
 抱きしめたあと、そう告げたい気持ちを押し込めるのは難行だった。
 言ってどうなるというのだろう。
 千尋は忘れていた方が心穏やかでいられる。異界での出来事を忘れるのは、それがこの世の理だからだ。理をゆがめれば、かならずどこかにしわ寄せがいく。彼女が人として得られるだろう幸せを、ハクのわがままで奪うことだけはしたくない。
 なのに。
 ハクをたしなめた千尋は、さぞかし驚いたことだろう。
(千尋には、わたしが童にみえるのだな)
 油屋ではたいそう多くの時間を過ごしたから、元服した男子くらいには見た目も成長したはずだというのに。千尋はハクの前にしゃがみこみ、幼子をたしなめるようにほほえんだのだ。
(童でなければ、蹴られなかったかな)
 ハクは千尋が大通りへでる前に、指を口元にかざし、そっと息を吹いた。すると千尋の乱れた髪はととのい、はだけたすそもつぶれた帯飾りも元通りになった。はだしの足下にはやわらかな草履を。
(魔法もいくらか役に立つ)
 乱れた姿を他のだれにも見せたくない。
 何かを、誰かをひとりじめにしたいなどと、そんな気持ちがわき起こってきたことが不思議だった。人間に近いそんな雑多な感情は、神であったときは持ち得なかったものだ。
 ハクのばか! そう叫んだ千尋の怒った顔が忘れられない。
 きれいだと思った。まっすぐにこちらをにらんで、叫んだ人が慕わしかった。
 千尋は立ち止まりもせず、振り返らずに駆けていく。
 千里眼をうとましく思ったのは初めてだ。彼女は山車のわきをすりぬけ、人の波をかきわけた。奥の社の前、鳥居のしたで待ち人と出会った千尋は、ほっとしたようにほほえんだ。
(見るのではなかった)
 自分のこぼしたため息もうっとおしく、ハクは目を閉じ両手で顔をおおった。

 
(終)
関連記事
コメント

管理者のみに表示