きみのこえ6

2012.08.12.Sun.10:00
(にぎはやみ、こはくぬし)
 変わった名前だ。「にぎはやみ」が名字で、「こはくぬし」が名前なんだろうけれど、一息に口にしてみるときれいな小川の流れのようで、千尋はいっぺんに気に入ってしまった。
 神社のすぐそばにある小さな家に招かれて、千尋は草履を脱いだ。父の実家のような、縁側のあるどこかなつかしい瓦葺きだった。明かりはないのにどこか夕暮れをとどめてあたりは明るく、遠くから祭り囃が響いてくる。柱にもたれながら千尋は目を閉じてそれを聞いていた。ふしぎと落ち着く。さっきまで、心細くてたまらなかったのに。
「疲れたろうね。ずっと歩いてきたんだろう」
 いたわるような声がした。目を開けると、手にちいさな入れ物を持った男の子が、ほほえんでいた。
「薬を持ってきた。傷にぬると痛みが楽になるよ。それと・・・・・・帯がすこしきつすぎるようだけど」
「解いてもいい?」
「・・・・・・とく? ここで?」
 男の子は目を丸くした。
「うん。苦しくて息、できないの」
 気のせいか頬が少し赤いようだ。色白だから、よくわかる。
「こはく、ぬし、くん?」
 男の子はびっくりしたようにほほをひきつらせ、泣きそうな顔で唇をつぐんだ。千尋は大慌てで、彼の顔をのぞきこんだ。きっと不愉快だったのだろう。
「ごめんね、にぎはやみくん」
「ハク」
 ふきげんに男の子は眉を寄せた。
「呼ぶなら、ハクと」
「ハク、ね」
 息をはあっと吐き出して、ハクはうつむいた顔をふいにあげた。髪がゆれ、額髪がさっとわかれてほっそりとした眉がのぞいた。痛いくらい真剣な、大人びたまなざしがまっすぐに千尋を射抜いた。
 形のいい唇が、声もないまま動いた。
 ち、ひ、ろ。
(なに・・・・・・)
 ハクが千尋の名前を知っているはずがないのに。背筋がざわついて、千尋はそれでも目を離せないままハクをにらんだ。目をそらしたら、いけないような気がした。子どもの迫力に負けるなんて、高校生のメンモクにかかわる。
 いいや、そうじゃない。
 こんなに必死に、誰かにこいねがうように見つめられたことなど、いままで一度だってなかった。
 こんなにうれしい気持ちは、初めてだ。
(うれしい?)
 手をのばし、千尋のほほに指先で触れたハクは、ほつれて唇にはりついた髪をよけてくれたのだった。指のつめたさに思わず顔をそむけると、千尋は首を振った。
「やめて」
「・・・・・・ごめん。薬をぬるよ」
 情けなかった。ハクをすっかり意識してしまっている。高校生が、ずいぶん年下の男の子を。いいわけも、ごまかしも無駄なのだと、なんとなく千尋は気づいていた。こんなに胸が痛いくらい鳴るのは、目の前の男の子が、あまりにきれいなせいだ。きれいでやさしくて、悲しそうだからだ。 
「いい、自分でするわ」
 薬を受け取る手が震えた。取り落とした陶器が、土間に落ちて割れてしまう音が、耳に届くか届かないかのうちのことだった。
 手を引かれて抱き寄せられた。そのときかいだ衣のにおいは、ふしぎなことにすんだ水のそれだった。豊かな水に抱きとめられているかのような心地よさに、千尋は目を閉じた。
「ハク、薬が」
 ぼうっとしながらもつぶやくと、冷たい声がした。
「薬がほしい? はやく祭りへ行きたいの?」
「ええ」
「待ち人が心配?」
「・・・・・・きっと、心配してる」
 本当はずっとこうしてここにいたいと言ったなら、ハクはどんな顔をするのだろう。
 腕がそっと解かれた。ハクはなにくわぬ顔で千尋の足を手に取り、かかとを持ったまま、赤く皮のむけた親指の付け根に唇をつけた。ひんやりとした薬を、舌で塗ったのだ。
(わあ! わあ!)
 なんとか声は上げずにすんだが、それでおしまいではなかった。ふくらはぎをひょい、とつかみあげられて、千尋はのけぞりそうになりながら、とうとう素っ頓狂な声を上げた。
 ももの内側に、赤く虫に刺されたあとが点々とある。千尋は乱れたゆかたのすそを押さえ、叫んだ。
「やめて。怒るからね」
「なんのこと。わたしは薬を塗るだけだよ」
 虫さされをとっくり検分しおえ、手の甲に塗った薬をなめとるハクの舌は薄い紅色をしていた。もうどう考えてもおかしい絵ではないか。
「し、し、舌はだめ、だめだめ」
「じゃあ、指ならいい?」
 からかいにしてはすさんだ目つきでハクは言うのだった。
「いいと言って」
 きれいな顔をしてやさしげな、とんでもない不良に捕まってしまったのかもしれない。すんだ瞳で、穏やかな声で、おびえる子をなだめるようにハクは笑った。
「帯もゆるめようか? ぜんぶ見てあげる。わたしがきちんと着せてあげるから、平気だよ。さあ、薬をぬってしまおうね」
 笑顔がこわい。千尋は震え上がった。
「舌と指、どっちがいい」
 相手が悪い。勝ち目がない。千尋はとうとうしゃくりあげた。
「だめ!」
 涙にひるんだとみえた一瞬に、千尋はもう片方の足でハクのおなかを蹴り飛ばした。手応えはあった。手加減をする余裕すらもなかった。
「ハクのばか!」
 あっけにとられたような顔を見ると、なぜか悔しくてたまらない。一方的にずいぶん恥ずかしいことをされたのに、こちらはまごつくばかりで逃げ出すことくらいしかできないのだ。
 わからないのは、ハクに触れられても、すこしもいやだと感じなかったこと。見ず知らずの、会ったばかりの子に気安くされたというのに、嫌悪などさっぱりわいてこなかった。
 草履もはかずに駆け出すと、千尋はあとを振り向かずに一心に走った。
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