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きみのこえ3

Category千と千尋の神隠し
 はるか高みから眺めた地上には、建物や家々がわずかのすきもなく建ち並んでいる。ややきゅうくつそうに流れる川を見たとき、久々に心が弾んで、ハクは吹き寄せた風に身を任せてひとつ宙返りをした。
 なつかしい水の匂いにひかれて掃き清められた斎庭におりると、すでに夕暮れの光が杉の林を赤々と染めていた。
(心地いい)
 魔女の領域にいたときは、汚れきっても平気だった。しかし、ここは山の苔土や石、粘土層に漉された清水の気配がしずかに満ちている。海で禊ぎをして、あらかたの淀みを振り払ってきたと思っていたが、ところどころにこびりついたケガレが冷たい炎にやかれたように消えていくのがわかった。
 深く息を吸い込むとハクは目を閉じた。そうして再び開いたとき、千里さきの風景までも見渡せる目は、ごく間近にある庵からもれるほのかな明かりをとらえ、鼻はこうばしいよい匂いをとらえた。
「もし、大神さま。いらっしゃいますか」
 戸口で声を上げると、こころよく招き入れる声がした。土間に入り座敷をのぞきこむが、誰もいない。しばらくして、小柄な翁が色のあせたのれんの向こうから顔を見せた。白髪を古風にみずらに結い、青あおとした松葉でゆわえている。くたっとした衣に、ひどく不似合いな洋風の白い前掛けをつけている。
「おや、ようやく来たか」
 ハクは一瞬口にする言葉もみあたらなくて、ただ息を止めて目をみはった。小白川は大河の傍流としてうまれた。父なる懐かしい川の主の姿を前にして、どんな言葉もあてはまらないような気がして、ハクは唇をかんだ。
「まあ、座りなさい。長旅をしてきたのだろう、これでもお食べ」
 大皿に盛られた、顔よりも大きなにぎり飯を前にしたとき、胸がつかえたように苦しくなった。飲み込みがたい契約を、むりやり腹におさめたときのことを思い出したのだ。あれは、やはり浅はかな選択だったのだ。
 頭を下げて、ハクは湯気を立てるにぎり飯をひとつ取り、かぶりついた。くやしさと、ふがいなさで目の前がにじんだ。
 無様なことをしたのではないのだろうか。
 魔女の弟子になどなって、結局自分は何を得たのだろう? 魔法の力ではこの世界に介入することはできない。ここは、人間の世界なのだから。 川を埋め立て、何百年とありつづけたものを一夜のうちに消し去ってしまう人々の力をまえにして、いくら修行をかさねたとて、一柱の稚い神に何ができるというのだ。
「おぬしのことを、気にかけていたよ」
 衣の袖で顔をぬぐい、一心ににぎり飯にかぶりつくハクを、大神はしずかにみつめていた。
「油屋でおぬしを見たと。そう古いなじみから聞いたが、手は出せなんだ。たとえ我が子だろうと、望んで魔女と契ったとあればな」
 食べ終えたハクは、まんじりともせずに座っていた。ふいに手が伸びてきて、ハクのほほについていたらしい米の一粒をつまみあげた。大神は感嘆したようにうなった。
「おぬしも、小さき者に救われたか」
「小さき、者?」
 問い返すと、翁は片目をつぶった。
「それも、娘だ。すみにおけんな」
「なんのことでしょう」
 目の前にかざされた米粒が、部屋のかたすみに置かれた灯台の明かりに照らされて、にぶく光った。ふと刺すような苦しさが胸をさして、ハクは顔をしかめた。
「人はわれわれ神を忘れつつあるが、そう嘆くこともない。中には昔と変わらぬ親しみを向けてくれる者もある。われわれは、そうした人々の想いをかてにして生きながらえるのだ。たとえ、身が滅びようとも」
 よくわからなかった。ハクはうなるように言った。
「我が身のことがわからないのです。帰る処は、もうありません。わたしは、もうすぐ消えるさだめです。覚えていてくれる者などいません」
「忘却は毒にも薬にもなる」
 大神は米粒をハクの鼻の頭にくっつけた。
「このまま消えてもかまわぬと言うか」
「ですから・・・・・・」
 ハクはちっぽけな米粒をつまんで、舌の上にのせた。すると、思いがけない甘みが口の中に広がった。ハクがいま口にしたのは、にぎり飯ではなくて、米の一粒だ。なのに、味わい食べると土と水の匂いや、稲穂の間を通り抜けていった風の音、肌さわりまでも感じられるのだった。
 凍ったように動きを止めたハクを眺めて、大神はおかしそうに声を上げて笑った。
「おぬしに縁が深い、小さき者のことを思い出すことができれば、あるいは・・・・・・。おぬしが魔女のもとから離れられたのは、なぜなのか。それを思い出すことだ。真名をどのように取り戻したかをな」
 ふしぎといままで考えつかなかったことだった。
「忘却は薬だ。手には入らぬものを忘れれば、たいそう気楽だからな。しかし、ひるがえると薬は毒にもなる。約束を果たさず、一人で消えてなくなって、悲しむ者などこの世にはないと言い切る傲慢さは、おぬしに必ずやあだをなすだろう。中途半端にさまよって、どこにも属せぬ危険な落ち神になることもないではない」
「・・・・・・わたしがいなくなって、だれかが泣くでしょうか?」
 ずいぶん疑り深い気持ちで、ハクは言った。
 誰を忘れているというのだろう。約束まで交わしたのを、そう簡単に水に流してしまうわけがないのに。神は決して口約束はしないものだ。
「忘れたのには、理由があるのだろう。まあ、むりに思い出せとは言わん。この世で生き続けることは・・・・・・おぬしの望み通り、この世からもあの世からも、あわいの世界からも消えてしまうより、ずっと難儀な選択やもしれぬもの」
 大神はにっと黄色い歯を見せて笑った。
「まあ、お食べ。おぬしの元気が出るように、心を込めて握ったのだよ」
 にぎり飯の盛られた大皿を、ずいっとさしだされたハクは、目をまたたかせ、蚊の羽音のような小さな声で、「はい」とつぶやいたのだった。
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