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きみのこえ2

Category千と千尋の神隠し
 水が好きだ。
 冷たい水に足先をひたしたときの感触もたまらなくわくわくするし、身体ぜんぶをゆだねて水面にこうして漂っているのもすごく好きだ。ゆるかやなばた足で、水をかく。流れが生まれ、うずがぶつかり合い、さらにあたらしいうずができる。
 高校にあがるとき、水泳部に入部しようと真剣に検討したけれど、求められるのは選手としての資質だとわかり、あっさりあきらめた。水に潜ったり浮いたりできれば満足なのであって、速さを追求したり大きな大会に出ることに興味はさっぱりないと気づいたのだった。
 誘ってくれた子はいつまでも残念がってくれたけれど、今でも後悔はしていない。
 たっぷりの水に抱きとめられて浮いていられたら、それで満たされる。
「千尋」
 呼ばれたような気がして、千尋は急いで身体を起こした。くぐもった誰かの声がたしかにしたのに、プールサイドにはだれもいない。じりじりと照りつける日差しをさけて、皆はそうそうに切り上げていったのだ。
 小学校での監視員の話に飛びついたのは、子どもたちが帰ったあとならば好きに泳いでいいとお墨付きをもらったからだ。母校ならではのはからいに、大げさではなく飛び上がって喜んだのは言うまでもない。
「荻野ぉ、上がれ。今日はそろそろ閉めろって」
 半開きになった準備室のほうから声がした。
「はい」
 一声返すと、千尋はなごりおしく思いながらも水から出て、熱せられたプールサイドを飛び跳ねるようにして準備室をのぞき込んだ。日に焼けた背中がなだれをおこしたビート板の山の向こうにみえた。
 じんわり水をしたたらせる水泳帽をとって肩紐にはさむと、小学生のころからずっと切らずにのばしたポニーテイルが重たく背中にたれた。同学年でも、千尋ほど髪の長い子はほかにいない。
「ここはおれがやっとく。あとは掃除して帰ろう」
 口にする言葉は少ないが、面倒見がいい人だと気づいたのは、ここへくるようになってからだ。はしゃぎ回る子どもたちへの注意は厳しいが、とにかく周りをよく気にかけている。足をつった子、具合の悪くなった子を引っ張り上げる手際などは、当番で顔を見せる保護者より頼りになるくらいだった。
 準備室を整え、忘れ物がないのを確かめてからプールに鍵をかけると、千尋は頭にかぶったタオルで首筋をふきながら、こっそり水島をながめた。
 八月の中頃になると、旅行だ帰省だと千尋の友達もみんなよそへ行ってしまった。同じく監視員を引き受けた水島と、二週間も連日顔を合わせることになったのは、だいぶ思いがけない展開だった。
 水島には引っ越してきたばかりのころ、お気に入りのくつの片っぽうを川に投げ捨てられたことがある。
「荻野、おまえのくつさ、あれは悪かったな」
 言われて驚いたのは、日に焼けた顔をした水島が、ずいぶん好ましく思えたせいだった。子どもの頃の意地悪を覚えていて、それを今思い出したように謝ってくるのがおかしかった。
 千尋は声を上げて笑った。
「くつ、返してくれたでしょ」
「川がな」
 水島はばつが悪そうな顔をしてそっぽをむいた。
「おまえのくつ、何回投げても川岸に戻ってきたっけな」
「怒った先輩が、自分のくつを投げたら、すごい早さで流されちゃいましたよね」
 思わず吹き出した千尋は、にらみつけられて口をつぐんだ。
「神様には愛されてるんですよ、わたし。神隠しですからね」
 引っ越してきたばかりの頃、森山から出て新居に行ってみると、ドラマでよく見る黄色いテープが張ってあって、母さんはひどくびっくりしていた。警察の人たちがたずねてきて、千尋たちが一ヶ月もの間行方不明扱いされていたことを知ったのだった。親戚のおばさんによると、ニュースにもなったらしい。
 まさに寝耳に水というやつで、父さんは誰かにだまされているんじゃないか、越してきた人をからかってやろうとしてるんじゃないかと、しきりにたずねて隣の家のおばさんを困らせていた。
 神隠しにあった家族が、とつぜん現れた。
 新しい学校で、千尋は自己紹介するまでもなく有名人で、しばらくはだいぶ肩身が狭かった。意地悪はされないものの、「神隠し」というあだ名がついて、とくに男子は面白がって千尋をそう呼んだ。
「神隠しってあだ名、ちょっと気に入ってたんだけどなあ」
 ガードレールが、ゆるやかな曲がりくねった川岸の坂道にそって森山のほうへ続いている。森山は別名おばけ山とも呼ばれていて、細い山道の奥の奥へ進むと、トンネルがある。
 一度、森山のおくにある不気味なトンネルに探検に行ったことがある。どこで聞き知ったのか、学年をこえて希望者がふくれあがり、リュックを背負った低学年の子から、引率の父兄まで、総勢三十名がトンネル前に集まった。それだけいると、不気味な石像もちっともこわくなかった。
 「神隠し」として、はからずも列の先頭を歩くことになった千尋は、けれどだいぶ皆をがっかりさせてしまった。
 トンネルを抜けると、木々やツタが出口に覆いかぶさるように茂っていて、道らしきものはぜんぜんみあたらなかったのだ。
 それでも、帰ってきた後は胸がすっきりしていた。のどの奥でへんに溶けずに残った粉薬が、きれいに飲み込めたときのように。苦い味はずいぶんあとまで消えなかったけれど、あだ名が嫌いではなくなったのは、その日からだ。
「あの・・・・・・千尋って」
 千尋は隣を歩く水島を見られないまま、つぶやいた。
「プールで呼びませんでしたか?」
 首を振った水島は、からかうように言った。
「おれじゃない。あの時間、ほかには誰もいなかったし。あれだよ、神様じゃねえの」
 ちょうど町境にかかる橋にさしかかった。赤い丹塗りの橋は古めかしく、欄干に触れるとやけどをしそうに熱かった。
 水島が千尋のくつをなげたのは、ここからだ。
 大きく広い川の名は、唇にのせるとなぜか胸が苦しくなる。
 川はただ水の流れる水路ではなかった。山から染みだす一滴一滴が合わさって、豊かな流れになる。
 ここへ引っ越してくる前に住んでいたところには、そばにきれいな川が流れていた。名前は忘れてしまったけれど。
 千尋は小さい頃、その川に落ちたのだ。
 一人で川に遊びに行ったらいけないと、何度も言い聞かせられてきた。それでも、川の中で動く小さな魚の影をもっとよく見ようとして、ぬれた草で足をすべらせて、どぼんと落ちたときにはもう遅かった。
 苦しいとかそういうことよりも、ずっと上の方、手を伸ばしても届かない水面がとてもきらきらしていて「きれいだな」と思ったことだけはよくおぼえている。どうやって川岸にはいのぼったのか、ちっとも記憶がないけれど。
 きらめく水面を、もう一度みたい。
 そうしなければいけないと、せかされるような気持ちで思うのに。
 あの川は、もうこの世のどこにもないのだ。
 あんなにきれいで、やさしい流れが、今は埋め立てられて、建物のしたじきになってしまった。
 「神隠し」のあとで千尋が変わったとすれば、それまで思い出しもしなかった幼い頃の記憶が、やけに鮮やかに思い返されるようになったこと。そして、病気にでもなったように、ときおり胸が苦しくなって、つきつき痛むこと。涙があふれて、こぼれてとまらなくなること。まるでこわれた水道の蛇口だ。修理の仕方があるのなら、知りたいと切実に思う。
 心の奥の奥、水のこぽこぽあふれる場所をつつくだけで、せきとめられない想いがわき出てしずめられなくなる。
「なあ、荻野。おまえさ、あさっての花火大会・・・・・・行くか?」
 数歩さきで振り返った水島は、そう言ったあと、面食らったように駆け寄ってきた。
「わ、どうした、荻野」
 千尋は手のひらで涙をぬぐい、ごまかすように笑った。
「・・・・・・行きます」
 もし一人だったなら、すぐに声を上げて泣きたいくらいだった。
 この悲しみはどこから流れてくるのだろう? 大切なさがしものがみつからない、そんなもどかしさが切ないくらい苦しくて、千尋はうつむいた。
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