きみのこえ ~千と千尋の神隠し~

2012.08.06.Mon.09:03
 身をさかれるような苦しみとともに、今でも思う。
 いったい自分に何ができたろう?
 手を尽くせば、最悪は免れることができたのだろうかと。
 ・・・・・・何者でもない。
 何者にもなれない。なりようがない。今となっては。
 おまえなどいらないと、そう言われたのだ。
 見捨てられた神ほど、この世で情けないものはない。 


 それは春の頃だった。
 小さなささやかな流れのなかにまどろんでいたとき、突然、濁った油のにおいと、地を揺るがすどよめきに目が覚めた。神代のころから地を削り海へと注いでいた大河の主の足下にもおよばない我が身は、稚い神ではあるけれど、ざっとかぞえて数百年、この土地に生きる人々を見守ってきたという自負はある。
 ところが、豊かな鎮守の森は少しずつ削り取られ、社の周りはいつしか草の生い茂りうっそうとして、参る人々も絶えていた。知りつつ放っていたのは、怠惰というほかなかったのか。
 時の流れのなかに置き去りにされ、忘れ去られたのをいいことに、心を閉ざし目をつむり、人々がとうの昔に神々への畏敬の念をうしなったことにきづかぬふりをし続けていたのだ。
 川を埋め立てるのは、狂った獣のうなり声に似た音を立てる大きな機械だ。えぐられ、どこかの山の香りがする土が、小川の息の根を止めようと覆い被さってくる。
 流れはせき止められ、あっというまに清流は消えた。川面のきらめきは茶色い土や石の下となり、澄んだ水の音もとだえたのだ。
 今思い出しても、指先が凍えるようにかたくこわばる。尾のさきまでもしびれて鈍重になり、何もかもが感じられなくなるくらいの物憂さに飲み込まれそうになる。
(神は、そうして死んでいく・・・・・・)
 忘れ去られ、蹂躙されて、消えていく。あつい灰色の石の下に塗り込められて、殺されるのだ。
(わたしは、ならなぜ、生きているのだ)
 死んだ神は世界のあわいに溶けて消えるのがさだめだ。
 なのに、自分はこうしてしっかりと痛みを感じることができるし、憎しみににた執着をもてあまし、ほほをゆがめることもできるのだ。
 失われた現身への執心、それだけではない。
 なにか、大切なことを忘れている気がする。どうしても思い出せない何かが、狂おしい気持ちにさせるのだ。
 水面のきらめきが、ふいにまぶしく目を刺すときがある。思いがけない光のかげんに息をのむときのように、うつくしい刹那のかがやきを思うとなぜか胸が苦しくふさいだ。



「これからいったいどうするつもりだい」
 油屋の主がため息をまじえながらつぶやいた。
「さあ・・・・・・」
 へりくだり答えを濁すのでもなく、傲慢に突き放すのでもなく、稚いりゅうは幼いしぐさで首を横にふった。首筋でそろえていた断髪は、たくましい背の中ほどまで伸びたのをひとつにくくっている。狩衣がにあう背高さに見下ろされるようにもなった。
 はたから見れば立派なお大臣の年頃の子息といった風だが、ときおりやけに幼げな表情もみせる。憂いに伏せられた瞳がゆれている。すでにこの世にはない清流のきらめきを宿したまなざしは、どこか不安げだった。
「帰る処はない。行きたいと思う土地も」
「そうかい。それなら、ここにひきとめて、永久に帳簿と抱き合わせていてやりたいもんだよ、饒速水小白主命。いやいや、御名がご立派だと舌をかみそうになるね」
 猿の目玉ほど大きなエメラルドの指輪をはめた真っ赤な爪が、古ぼけた紙切れを引き裂いた。細切れになった契約書は、風に乗ってちりじりになった。これではれて油屋と魔法使いの弟子は無関係ということになる。
「ここは昔のよしみで、ハクと呼ばせてもらおうか」
「なんとでも。それより、ひとつ聞かせてほしい」
 ハクは昨日までの雇い主にして師匠であった魔女に向き合った。
「なぜ今、わたしを手放す?」
「ふん。なぜも何もない。おまえはよく働いてくれたさ。後継も育ったことだし、教えることはもう何もない。そうとなれば、さっさと出て行くことだ。あたしの気の変わらないうちにね」
「あなたにはずいぶん世話になった。色々と」
 すんだまなざしを見ると、いらだちばかりがわき起こる。気の短い魔女を怒らせるには十分な物言いだ。汚れ仕事をさんざんやらせたことを、悔いてなどいない。しかし、感謝される筋合いもなかった。
 ハクは、ずいぶん昔に魔女と取引をした。
 人間界から迷い込んできた娘をもとの場所に解き放ち、その後いっさいの干渉をしないという約束をとりつける代わりに、稚いりゅうは娘にまつわるいっさいの記憶を捨て去ったのだ。ハクにとっては、もしかしたら命よりも大切な宝のような想いとひきかえに、ちっぽけな人間の娘を救ったのだ。
「ばかなりゅうだ」
 小声でささやいたのが聞こえたのか、それとも吹く風に目を細めただけなのか、ハクはかすかにほほえんだ。
「あてがないわけではない。こうしてあなたのもとで働く間に、なじみもできた。うつつに帰ることはかなわなくとも、あわいに消えてしまうまでに方々に挨拶くらいはできる」
「・・・・・・そうするがいいね。さあ、おゆき」
 にべもなく言い捨てると、ハクは律儀にも頭を下げてみせた。
 饒速水小白主命……ハクは、人間の娘にひとかたならぬ情けをかけて、とうとう奪われた名までも取り戻したのだ。名は存在のすべてだ。真名を取り戻したハクは、操り人形のくせにみずから糸を引きちぎった。
 それだけでも驚嘆にあたいするできごとだった。
 魔女にとって、だれかを愛するということは執着でしかなく、自分を殺してまで他を生かすなどというのは夢物語としか思えなかったのだ。
 名を思い出させてくれた千尋を忘れることをハクは選んだのではない。選ばされたのだ。それが八つ裂きにされるよりも辛い決断だったから。
 ・・・・・・魔女はひねくれ者だ。相手が何を大切にしているか、それをめざとくかぎつけて商売の種にする。
(この世界とあちらの世界は時の流れ方がちがう。あの娘も今となってはどうしているか・・・・・・忘れていたほうが利口だろうさ)
 すさまじい風が吹いた。
 りゅうは白銀のうろこをきらめかせ、藍色の夜明けの空をさく雷のようにじぐざぐに急上昇していった。一筋の糸が吹き飛ぶように、その姿が差してきた曙光ににじみ、いつしか消えてしまっても、湯婆婆はしばしの間橋のたもとにたちつくし、にらむようにりゅうの飛び去ったかたをみつめていたのだった。
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