日高見の夫婦5

2012.06.28.Thu.04:48
 くじいた右の足を看た里長の娘は、遠子の足をよくふいてからふと手をとめた。
「お腹にお子は?」
 遠子は娘の愛くるしい顔をみつめた。いくつか年上だろう。落ち着いた笑みは好ましいものだった。
「子・・・・・・いません」
「たしかですか」
 遠子のびっくりした表情がおかしかったのか、目を細めてみせた。
「捻挫には、ヤナギタデの煎じたのがよく効きます。でも、これは、はらんだ人に使うと毒になるのです。もしかしてとお思いなら、湿布はやめておきますわ」
 遠子は顔が赤らむのをいぶかしく思いながら、首を振った。
「あの、湿布してくださってかまいません」
 自分が子を身に宿すということがありえる、そんなことは不思議と考えつかなかった。女になどならないと思い切った時から、女性が通る道をあえてよけて、獣道をかきわけるようにして歩いてきた気がする。
 小倶那と再会したときに、自分の体に裏切られたような気がしたことを、遠子は思い出した。女になどなりたくない、そんな意地にも似た決意と、小倶那とした幼いころの約束がよみがえってきたのだ。
 顔を見て、憎むことなどできないと悟ったとき。
 記憶の中のちいさな小倶那が、端正な若者として遠子の前に立ったとき。口ではあらわしようのない愛おしさが、それまで遠子を支えてきた怒りさえももみ消してしまったのだ。
 ・・・・・・彼と生きるということは、女として生きるということなのだ。
 わかっていたはずなのに、思いもしないところから突き出された手に胸を強く押されたようで、遠子は口をつぐんだ。
「お二人のうち、どちらを選ばれるのですか」
「選ぶ?」
 湿布をあててもらいながら、遠子は聞いた。
 しかし、すぐに思い当たることがあり、遠子は息を吐いた。
「菅流はわたしの同族で、いろいろと助けてもらっただけです」
「恋人同士のように親しげでしたのに」
 さぐるような言い方に、遠子はほほえみを返した。
「あなたは、小倶那が好きなの?」
 娘はうろたえたように、うつむいてしまった。
「あの方がけがをなさって、はじめて我が家にいらしたとき・・・・・・こうして湿布をしたのです。遠子さんと同じ場所に」
 ようやく小さな声で娘はつぶやいた。
 ひと月前。あやまって崖端から落ちた小倶那を介抱したのがこの人だったのだ。あのときは大騒ぎだった。
「タデは、噛むと口の中がただれるほど辛い。そんなお話をしたら、あの方は笑ってこうおっしゃったのです。タデは物好きな虫しか食わないと言うけれど、自分はその虫の気持ちがなんとなくわかる気がする、と」
 なんとも言えずに黙っていると、娘は続けた。
「辛ければ辛いほどいい。ほかの虫がきっとよけていくだろうから、ひとりじめにできる、と」
 遠子にはさっぱりわからない話だった。頬を染めるような話のようにも思えない。
「泥まみれのお召し物を代えるとき、お命にもかかわるような傷跡があることに気づいて、おたずねしたのです。勾玉が癒してくれたと、苦しそうなお顔でおっしゃいました」
 小倶那が勾玉のことを話したのは気にくわないが、この人のことは憎めそうにない。小倶那を好ましいと思ってくれることが、なぜかうれしく思えてきたのだった。
「あの人を気にかけてくれてありがとう」
 遠子は頭を下げた。顔を上げたとき、娘はあおざめこわばった顔で遠子をみつめていた。何かまずいことを言っただろうか。
「小倶那はわたしの弟のような人ですもの」
 咳払いが聞こえた。室の入り口に小倶那がいて、ひどく不機嫌そうに唇を結んでいた。小倶那は娘に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
 それから、怖い顔で遠子をにらみつけた。
「きみって人は、どうしておとなしく待っているということができない?」
 何もこんなにきつく言うことはないのに。遠子は痛む足をおして、座り直すと小倶那を見上げた。娘が室を出ていくと、小倶那はあらっぽく腰を下ろし、遠慮もなく遠子の足をしらべた。赤みがさしたところには、湿布がしてある。小倶那は息を吐いた。
「たいしたことはないね」
「あなたが帰ってこないから、迎えにきたのよ」
 小さな声で抗議すると、小倶那は怒りをやどした目できつく遠子をにらんだ。
「弟が心配で? それはそれは」
 鼻で笑うなどということを、小倶那はどこで覚えたのだろう。
「ぼくはきみに案じてもらわなくても平気だ」
 小倶那がこんな風に怒るのを見るのは、もしかしてはじめてかもしれない。
「心配して何が悪いの」
 手に触れられて、遠子は息をつめた。熱い手のひらが、痛いくらいの力で握りしめてくる。背中に腕を回し、きつく遠子を抱きしめた小倶那は、切れ切れに言った。
「弟になるくらいなら、きみにきらわれたほうが、ずっとましだよ」
 思い詰めたような小倶那のまなざしに射すくめられて、遠子はひるんだ。そのすきに小倶那は急く様子もなく、そっとほほに口づけをした。触れるだけの唇は、かすかにふるえていた。
「ぼくをさしおいて、どんな約束をしたの。ずっとそばにいると、離れないと、菅流と約束をした?」
 小倶那はうめくようにささやいた。
 熱い吐息が、首筋をかすめた。いまにも噛みつきかねない野の獣をまえにしたように、彼をこわいと思うなんてあんまりなことかもしれなかった。
「ぼくが、こわい?」
 小倶那がおそろしかった。でも、同じくらいいとおしい。
 小倶那の気持ちは見えないけれど、ふれあえば感じることはできる。遠子の心も、同じようにしてこの人に伝わればいいのに。
「こわいわ。あなたが時々、ぜんぜん知らない人に思えるときがあるの」
「ぼくは変わらないよ。きみこそ、変わった」
 小倶那は怒ったように言った。
「ぼくを疎んで、嫌いになっていい。それでもぼくは、遠子をよそにやるつもりなんてないからね」
 遠子は傷ついたように顔をゆがめた小倶那を、思い切って抱きしめた。
「ずっとそばにいろと、なぜ言わないの」
 お互いのおでこをあわせると、遠子はささやいた。
「うんと言うわ。何回だって。あなたをどうしたら嫌いになれるのか、知りたいくらい」
 腑に落ちないような面もちで、小倶那は眉を寄せていたが、じきに思い当たることがあったようで、ため息をはいた。
「ぼくも」
 唇をよせて、小倶那は息の通うほど近くでささやいた。
「きみを好きでいるのは、辛いヤマタデを噛むのとおなじくらい苦しい」
 ほほをためらいながらそっとなでると、その手をとって小倶那はやさしく握りしめた。
「苦しくても、欲しくなる。ときどきぼくは、きみっていう人をなんとかこなそうとしている、ちっぽけな虫になったような気分がするよ」
 遠子はふいにおかしくなって、ほほえんだ。
「ひとりじめにしてみたら。タデはきっと、そうしてほしいから身を辛く焦がしたのかもしれないわ」
 つられたように小倶那も笑った。
「きみも焦がれることがあればいいのに」
 冗談めかしているのに、顔つきは真剣そのもので、遠子は気圧されるような心地がした。けれど、もうふしぎとこわくはない。
 遠子は言いかけたいことを飲み込んで、ただ小倶那をみつめた。
 おしゃべりは人を近づけるが、遠ざけもする。
 しずかな沈黙は心地よく、浮かされるような熱はもどかしい想いをかきたてる。
 見つめあう目の中に、彼の望みがみえる。口をつぐまなければ、見えなかったもの。

 二人は声もなくほほえみあい、こわごわと唇を合わせたのだった。
 
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