逢瀬の川2

2011.07.13.Wed.14:13
昼を少しすぎた頃、庭先で冬菜を洗っていた八田女は、聞きなれた足音に気づいて顔を上げた。
「おばさんは本当に菜をつくるのがうまいな。この間もらったのも、うちの母さんが喜んで食べていたよ」
 働き者と評判の若者が、朗らかに笑っていた。
「真人かい。まあ、まあ」
「ウサギだ。おじさんも好きだろ」
 大振りの葉に包まれた肉はすでに蒸されていて、よい匂いをさせていた。
「食べきれないから、手伝っておくれよ。遠慮なんていいさ。おばさんには色々世話になっているんだから」
「世話といったって、あんた」
 手ぬぐいで首筋をぬぐいながら、八田女は苦笑いをした。狭也が宮へ勤めにでてもうすぐ一年が経とうとしている。
 その間に羽柴はひどく変わった。村外からも力を借り、すぐ近くにあった湿地を開墾したのだ。大勢の出入りで静かな村はにぎやかになり、よそから来て住みついた人も多い。
 八田女のような働き盛りをすぎた者にとっては、変化は心を浮き立たせるものではなく、どこか急かされているような、落ち着かない物憂さがあるのだった。
 元気に立ち働く若者たちを目にするのが喜びとなったのだから、自分も老いたものだと八田女は思う。小さな畑を耕して菜などを作り、近所に振る舞ったり、お返しに振る舞われたりする日々に、真人のような若者が訪ねてきてくれる。それはやはりうれしいことだった。
「川向こうの家はできたのかい?」
「ああ。あともう少しだよ。祭りの時期までには仕上げないと」
 快活な真人の目がほんの少しかげったのを、八田女は見逃さなかった。
 一年前、狭也が輝の御子に見いだされた夜、真人は妻を得ずに帰ってきた。がき大将としてならしていた子どもの頃から真人を見てきた八田女は、彼が年頃になって狭也を憎からず思っていたことも知っていたのだった。
「おばさん、狭也から何か便りは来たかい」
「いいや、なにも来ないねえ」
 宮へ行くということは、今までの暮らしをすべて断ち切ることだ。娘は神女さまになって、清らかな身で貴い方へお仕えしていることだろう。
 ただ一つ気になることがあるとすれば、戦のことだ。輝を奉じない人々が軍をもってまほろばに攻め上ったらしいという話を聞いたのは冬のはじめで、それからほかの知らせはなにもないまま季節は春を迎えようとしている。
 輝の神のお側にあれば、案ずることもあるまい。・・・・・・便りなど来ない方がよいと、八田女は思い切っている。どこかで望みを抱いて、叶わないのは辛いことだとわかっているからだ。
 しかし、それを真人には言えるはずもなかった。今年こそはよい妻を得てほしいと思いながら、そうなればいっそう寂しくなるだろうと、八田女はこっそりとため息を吐いた。



 まだ日も高い。手ぶらになった真人は川べりの道を歩いていた。作りかけの家を見に行こうと足をのばしたのだが、若い夫婦ものの住まいだったことを思い出して、なんとなく気が乗らず、このまま土手をあがって悪友の顔でも見に行こうとしたときだった。
 草の生えだした土手は高く、その向こうは白っぽい青空がひろがっているばかりだ。
 見慣れた風景だ。その景色が奇妙にゆがんだかと思うと、信じがたいことが起こった。
 一瞬、衣がどこからか飛ばされてきたのだと思った。だが、里であんな鮮やかな浅葱色の衣は見たことがない。
(人だ)
 ふわりと土手の上に降り立った白いつま先と、腕を広げた姿を見て叫び出さない自分が不思議だった。ひとときだけ、声を失ったのかもしれない。天女は狭也の顔をしていたのだ。
(これは夢か)
 春野に生いでた柔草を仕立てあげたような衣を身につけ、面輪がすっきりと出るように小さな髷を結い、長い髪を背中に流した姿はこれまで見たどんな乙女よりも美しく、可憐だった。あの祭りの夜の狭也よりも、おそらくずっと勝っている。
(なんてことだ、夢じゃない)
 狭也は真人をみつけて目をみはった。そして土手を駆け降りようとして、足を滑らせた。あれこれ思う間もないまま、真人は土手を駆けあがって、危ういところで抱きとめた。
「あんたは、真人?」
 ほっそりとして柔らかな体は、真人が生まれてこのかた手にしたどんなものよりも繊細で、壊れやすそうだった。しかし、顔と顔を見合わせた娘が口にしたのは、くだけた羽柴者のことばであり、それを聞いた真人はようやく笑うことができた。
「あんたこそ、物の怪じゃあるまいな、狭也」
 狭也は軽く頭を振った。
「物の怪になったのかもしれない。でなければ、空を駆けてくるなんてありえないもの。でも、ここは羽柴でしょう、本当に」
「ああ」
 うるんだ瞳でみつめられて、胸が鳴った。ほんのわずかの間に、狭也はひどく美しくなった。

「どうしましょう。どこかに落ちたのよ」
 何かを思い出したように、狭也は叫んだ。裳をまくりあげて土手を駆け降り、道に立って辺りを見回した。
「大事なものか?」
 見慣れぬものなら誰かが拾うだろうさ、そう言いかけて、真人は息をのんだ。
「真人もどうか探してちょうだい。木の枝に引っかかっているかも」
 見上げてきた狭也は、半分泣きべそをかいていた。幼い頃からの筋金いりの意地っ張りが、そんな顔をするなんてよほどの宝なのだろう。
 土手を上がった草原に、貴人の身につけるような立派な首飾りが落ちていた。光ったような気がしたが、おそらく日差しをうつしたのだろう。ほかに荷物はなさそうだった。
(ずいぶん軽装だな。それにはだしじゃあ、野山を越えられるわけがない)
 輿か馬にでも乗ってきたか。しかしそれなら、里の入り口で誰かが気づいて大騒ぎになるはずだ。ここは里の最奥、鏡の社の近くで、外へ通じる道などはない。
 首をひねりながら土手を降りた真人は、狭也がいつの間にか川の中に入ってざぶざぶ水をけたてる様子を見て、すっかりたまげて声を上げた。
「おい、何してる。そこを動くなよ」
 この川は思いがけないところが深くなる。
「向こうの崖の下の岩に」
 それ以上は聞こえなかった。真人は舌打ちをすると、急いで水に入った。川はひどく冷たく、ここ数日は雪解けが流れてくるせいもあって水量も多い。
「早く上がれ。うっかりすると流されるぞ」
 上等の衣をすっかり水浸しにした狭也は、腰まで水に浸かりながら必死に言った。
「あの岩のところに、引っかかっているの」
 確かに、崖の下のかげになっている岩場に白っぽいものが引っかかっている。あそこまでいくのは考えるだけで難儀だった。
 風が吹き、崖の上の木々が揺れた。光が一瞬岩場にさして、目を細めていた真人は驚いて叫んだ。
「あれは、人か?」
 人となれば話は別だ。浅いところを選んで川を進んだ真人は、えぐれるように深くなったところにあやうく足を取られそうになりながら、慎重に岩場にたどり着いた。
 大きな岩にうつ伏せになった背中を見て、ちらりといやな予感がした。
(まほろばの男か)
 ひっくり返してみると、息はしている。目を閉じたその顔は、男とも思えないほど優しげで、美しいのだった。角髪を結ってはいるがどこか幼い風情で、狭也があんなに必死で探すほどのものなのかと思うと、見ていて面白くもなかった。
 背中に男を背負い、やっとのことで川原に戻ると、狭也はすぐさま気を失った男の胸に耳を当てた。鼓動を打っているのを確かめると気が抜けたようだった。
「気を失っているだけだわ。ああ、助かったわ、真人。本当にありがとう」
「誰なんだ、これは」
 たずねると、狭也は小さく笑った。
「誰だと思う?」
 どこか自慢するような響きがあった。聞かなければよかったと真人はあさっての方を向いた。
「あたしの夫になるひとよ」
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