岩姫異聞3

2012.04.25.Wed.04:35
館の近くまでくると、王と伊吹は明星の背から降り、静かに、かつすばやく馬屋へとむかった。
「あら、お早いお帰りですこと。お父さま、伊吹」
 声を聞いたとたん孫の背がぴんと伸びたのをみて、王は吹き出しそうになったが、なんとかこらえた。
 馬屋の入り口のところで、両手を腰に当て、雄々しく立っているのは王の娘、呼日だった。母となっても体の線が細く、おだやかで優しげな顔立ちをしているなかなかの美人だ。しかしこの笑顔の下に、どんな苦労を刻んできたのか、父である岩長王も計り知れないものがある。
「お父さま。伊吹は昨日の晩にようやく熱がさがったばかりなのですよ」
 泥だらけの二人の様子に細い眉をつりあげながら、呼日は続けた。
「寝床をのぞいたら、もぬけのから。青田彦が明星で出かけるところを見たというので、こちらで待っていたのです」
「寝床で粥などすすっていては、よくなるものもよくならん。伊吹に見せたいものがあってな。恐ろしい思いもしたが、それ以上に収穫があったぞ」
 あきれたような娘の視線をまったく気にせず、上機嫌で王は伊吹のちいさな肩をたたいた。すこしよろけながら、伊吹はおそるおそるといった風に母の元へいくと、頭を下げた。
「こんなに泥だらけになって」
 息子のうつむいた様子をみると、呼日は目を細めた。
「その泥を落としてしまわなくてはね。おじいさまと相撲でもとってきたのですか?」
「いいえ、蛇神と」
 はっきりと伊吹が答えたときの呼日の驚きようといったら、なかった。
「ごめんなさい」
「まあ、伊吹。まあ!」
 産声すらあげなかった子が、急にはきはきとしゃべり始めたのだ。これを驚かないでいられるはずもないと思いながら、ひどくおかしくて王は声を上げて笑った。
「何事ですか、これはこれは」
 ひょいと顔を出したのは青田彦という側近で、伊吹もなついている気のよい男だった。青田彦は泥だらけの郷長とその孫の様子に驚き、さらにちいさな子の手を握りしめて土の上に座り込み、泣き笑いをしている呼日を見て、やや度肝をぬかれたように声を上げた。
「喜び事でございますか」
「青田彦、今日はなにをして遊ぶ?」
「そうですね、御子の風邪も治ったご様子ですから、剣の池に魚釣りにでも参りますか」
「あそこに魚はいない」
 ごくふつうに受け答えをしていることの奇妙さにようやく気がついたか、青田彦はたちまち青ざめて、伊吹の前に膝をついた。乾きかけた泥のこびりついた頬のまま笑った伊吹は、楽しそうに言った。
「おもしろい顔をしている。真っ赤だ。猿はこんな風?」
「猿にでもなんにでもなりましょう。伊吹さまのお笑いになる声が聞けるのでしたら」



 青田彦が召し替えのために伊吹を連れていくと、ふたたびこみ上げてきた涙で目の前がにじんだ。
「何があったのです? あの子はこれまでどんなことがあろうと、一言もしゃべりはしなかったのですよ」
 父を見上げると、老いというものすら打ち負かすに違いない、大きな手のひらを見せられた。若かりし頃、いくつもの戦をくぐりぬけて日向をたばねた岩長王は、その剛胆さと懐の広さから大山神とも呼ばれ、国びとの尊敬をあつめている。
 そんな父の手がふるえている。何かにおびえ、身を震わせるものにあらがえないままでいるのだ。呼日は涙を拭くと、切り込むようにたずねた。
「蛇神のおわすところへ行かれたのですね」
 答えがないというのが、まさしく答えだった。
「岩姫さまがかたく禁じられたことですのに。あの地は、のちのちの子孫がため、名も付けず、耕さずそのままに保つべしとおっしゃったではありませんか」
「わかっている。ただ、見せたかったのだ。地を這う虫を一心にみつめるあの子が、広々としたあの原と青空を見て喜べばよいと」
 手のひらを握ると、王はうなった。
「この地がほしいかと、伊吹が言った。おばばどのと同じ表情でな。似ているとも思えぬのに、そうとしか見えなかった」
 胸が痛み、呼日は思わず両手をもみしぼった。
「岩姫さまの生まれ変わりではないかと、まだ信じていらっしゃるのですか?」
 王は困ったように唇を曲げた。
「あの土地におわす神が、こう言ったのだ。この子は輝の血が濃いと。大王家の始祖に連なる者だと聞くと、まこと、あっさり身を引いたぞ」
「・・・・・・神も恩というものを感じるのでしょうか。輝の鏡を壊し土地神を再び自由にしたのは、風の若子だと聞いています」
 十のころから斎の社で修行をし、十五のときにまほろばに采女として召し上げられた呼日にとって、大王家の始祖である風の若子と水の乙女はたんなる歴史上の人物ではなく、いまだその存在が鮮やかに感じられるひとびとなのだった。
「岩姫さまはまだ女神さまの御元にいらっしゃるのでは? 幼くとも、言葉を操れるようになったときには、すでに岩姫さまは岩姫さまであられるというではありませんか。それに、生の勾玉はまだ失われたままです」
 王は声を潜めた。
「勾玉を持たぬからといって、使命を持たぬということにはなるまい。伊吹にすぐれた素質があるのはあきらかだ。あの場で、わしには見えなんだ大蛇を伊吹はみたという」
 呼日の不満げな顔を見て、王は頬をかいた。
「異論はあろうが、まず聞きなさい。おばばどのの禁止はすでに解かれたのだぞ」
「本気ですの」
 にらむと、王は大きな肩をすくめた。
「大蛇があらわれ許したとき、その地を拓き神田とするべし、とな。子孫とは、伊吹のことに違いない。あの子が大人になる頃には、あの地は豊かな瑞穂が揺れる、日向いちのうつくしい場所になるぞ」
「お父さま、それは都合のよい解釈というものですわ」
「なになに。考えてもごらん。あの地で神にまみえて五体満足で帰ってこられたのは、おばばどのが訪ねたときと、今日だけだ」
 呼日は顔をそむけた。
「お父さまは思いこみが激しいのです。予言をなさりたいのなら、いっそ、巫女になられればいいんだわ」
 娘のような物言いがおかしかったのか、岩長王は笑った。
「いかなる巫女装束もこの身にはあわん。神のほうがいぶかしむだろうて」
 こうなると、思わず吹き出してしまった呼日の負けというものだった。
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