ヤマタノオロチ(2)

2010.06.14.Mon.16:06
待っていろとは言われたものの、櫛名田の性格からいって、じっとしていられるはずはなかった。もともと、あの御輿に乗るのは櫛名田自身だったことを考えれば、じっとしているなんて、とうていできない相談なのだった。

 彼女は着慣れた薄桃色の衣裳の裾をたくしあげ、近づきすぎず離れすぎずで須佐ノ男たちをつけていた。里人たちは依然として勢いの激しい川の様子にばかり気をとられており、花嫁の乗った御輿が里を出て行くのにながく気をとられている者などいなかった。雨もやんで川の氾濫は心配ないだろうが、川底を削りさらう水は茶色くにごって、ところどころで渦をなしていた。

 櫛名田は御輿を追って草におおわれた道を行きながら、額ににじんだ汗をぬぐった。季節は初夏を迎えようとしていた。梅雨を引きずるように雨は多いが、そのあいまに顔をのぞかせるまぶしい太陽を糧として、緑を身にまとう樹木や草実たちは、好き勝手に葉や枝を茂らせていた。むせるような青い草葉の匂いが、鼻の奥までかおってくる。虫の輪唱が耳をふさぎたいくらいにやかましい。いちど草むらをずるずる這っていた大きな蛇とであい、櫛名田はびっくりして悲鳴をあげてしまった。

 ちっぽけな蛇なんて足元にも及ばないくらいに凶暴な大蛇神のねぐらに近づいているというのに、ただの蛇ふぜいにこんなにも驚くなんてと、櫛名田は心がくじけかけた。

 虫の鳴き声にまぎれて悲鳴が聞こえなかったことを祈りながら、櫛名田はじぶんを励ましながら先へすすんだ。ここまできておめおめと見つかり、里に引き戻されるのはごめんだ。櫛名田には大蛇神と須佐ノ男のたたかいをみとどける義務があった。須佐ノ男がきいたらおかしがるだろうが、櫛名田はじつにまじめだった。

 川上への路は森の中にあり、四人が横に並んで歩けるほどの幅がきちんと整えられているはずだが、やはり年に一度の往来に使われるきりでは、どこからどこまでが道なのかもさっぱり分からないくらい、生えでた草で路は被いつくされている。

 先に行った男たちの踏みしだいた草のあとをそっとふみしめて歩いて行くと、やがて水の流れる音がちかづいてきた。邪魔になるので折り取られたのだろう、道をふさいでいた木の枝を大股で踏み越えると、からりとひらけた場所にでた。

 大きな滝が一本と、その右脇にごく細い滝の流れが白糸のように切れ間なく流れ落ちている。そのかげりに、おおきな穴がぽっかりとあいていた。大きいほうの滝がちょうど垂れ布のように入り口を覆って流れ落ちているものの、ここからでもはっきりと大蛇神の住まうという黒々しいあなぐらの入り口がのぞめた。

 櫛名田は丈高い草が群生しているかげに身を潜ませた。そっと頭を上げると、ここから二十歩くらいはなれた川の中洲に、花嫁ののった御輿と八つの酒甕が据え置かれ、それから一頭の馬が捧げ物として、横たわった朽ち木につながれているのがみえた。引き上げていく男たちをやりすごしてから、櫛名田はそのまま草のかげに座り、夜の更けるのを待った。 すぐにでも、恐ろしい神が穴ぐらから這い出てくるかと身構えたが、なんの音沙汰もない。櫛名田は肩の力を抜き、大蛇神の妻問いもやはり夜なのだろうと考えた。

 須佐ノ男はいま、どんな気分でいるだろう? どうやって大蛇神の首をとってやるか考えているところだろうか。それともどうやって説得するかを思案しているところだろうか。大蛇神ごときが恐ろしいものか、そういわんばかりの彼の自信にみちた言葉をおもいだし、櫛名田は心強くおもった。少なくとも、逃げることは頭にないにちがいない。

 須佐ノ男は本当に大蛇神を退治してくれるだろうか?

 櫛名田は緑の草ぐさの匂いに包まれながら、ふと胸が高鳴るのを感じた。その感じは、けして不快ではない。むしろ、じぶんの背中にかろやかな羽根が二枚も三枚もはえたように心がうきたち、おそろしい大蛇神のすまいをごく近くにしていることをひとときだけ忘れさせてくれた。 須佐ノ男のあの豪胆さは、きっと裏付けるものがあるせいにちがいない。櫛名田はそう信じたがっていた。彼はきっと大蛇神を倒して、いいや、彼の言葉を借りれば、説得してくれるだろう。そして、きっと、これからすべてがよくなるのだ。

(あのひとはわたくしの佐里を解き放ってくれる。里を、恐れから解き放ってくれるんだわ)

 すべての忌み事が、彼の剣で断ち切られねばならない。櫛名田はそこまで思い詰め、しかし須佐ノ男の強い自信をじぶんも信じてみようと思いはじめていた。櫛名田は自らの胸を飾る、木の実をつらねた質素な御統に手をのばし、そっとにぎりしめた。

       *        *        *

 沈みゆく太陽の残光も見えないままに夜がやってきた。空にはくろぐろしくも厚い雲がたちこめ、星はひとつもみえない。それどころか西の空から、いくつものいかずちが近づきはじめており、そのすさまじい轟音と閃く光の矢に櫛名田は震え上がった。彼女の目の端、そそり立っていた細高い木が、まばたきする間の雷光とともに真っ二つに引き裂かれた。

 まさにこれは天からの矢、神矢にちがいない。櫛名田は両手で耳をふさぎ、かたく目をつぶった。

 雨が降り出した。川のちいさな中州に忘れ去られたようにある朽ちかけた潅木。それにつながれた馬が稲光におびえていなないている。

 もうすぐだ。櫛名田には予感があった。もうすぐ、大蛇神が花嫁を喰らいにやってくる。

 紫色にかがやく稲光が、洞穴の入り口をときおりあかるく照らした。櫛名田は悲鳴を飲み込んだ。いかずちに照らされるあなぐらのなかから、たくさんの赤い光が地を滑るようにはい出てきたからだった。

「大蛇神」

 あれは、赤加賀智の色。大蛇神のあわせて十六の赤い眼が、あなぐらから這い出てきたのだ!

 大蛇どもは長い首を欲しいままに蠢かせ、やがて御輿のまわりにおいてある酒甕に首をつっこみはじめた。がぶがぶとここまで聞こえるいやしげな音をたてながら、大蛇神は酒をすっかり飲み干したらしい。やがてはでに酒甕の割れるおとが響いた。八度も絞ったやしおりの強い酒は、大蛇神を泥酔させるに足りたのだろうか?

 闇の中、十六個の赤い光がよたよたと踊っているようにみえる。ぬめぬめとした大蛇神の膚が、たえまなく落ちる稲光に照らされる。開いてはきえる烈しいいかずちが、ひとときひとときだけ真昼のような明るさをつくる。櫛名田は気持ちの高ぶりのために勢いよく立ち上がった。酒が効いている。須佐ノ男はなにをしているの、今が絶好の機会なのに! 櫛名田は危険もかえりみず御輿に向かって走りはじめた。生え出た草ぐさが雨ですべりやすくなっており、何度もすべって転びかけたが、彼女はひるまなかった。口が恐れにおののく体をはなれたように、叫んでいた。雨でずぶ濡れの衣がひどく重苦しく感じられるものの、そんなものはどうでもよかった。焦りのほうがいや増さっていた。

「須佐ノ男、何をしてるのっ!」

 櫛名田は身を振り絞るようにしてさけんだ。

「まさか、輿のなかで寝ているんじゃないでしょうね」

 口の中にまで雨の粒が入り込む勢いのなか、顔をたたく雨のつよさは痛いほどだ。櫛名田は両足をふみしめ、なんとか目をあけると、いまいちど叫ぼうとしたが、かわりに悲鳴をあげた。酔っているはずの大蛇神の頭のひとつが、よろめきつつも彼女をめがけて伸びてきたのだ。雷のひかりがあったため、それは雨の中でもはっきりとわかった。赤加賀智の色彩をはなつ大蛇神の眼はいかずちのまぶしいひかりにてらされ、ひときわばけものの禍々しいすがたを彼女に教えたのだ。

 大蛇神は牙をむき、櫛名田を呑み込もうとしている。その背なには緑の苔が生え、腹は何か赤黒いもので染まっている。いまにも飛び出そうな、ぎょろりと動く眼。二本の牙、その額。

「佐里」

 しかしなにより、彼女は大蛇の広いひたいに信じられないものをみた。雨のことや雷のことなど、そのときばかりはきれいに忘れた。なにしろ去年に大蛇神の犠牲となった、幼なじみの佐里の顔が大蛇神のひたいに確かにあったのだから。

 わすれるはずがない、櫛名田の胸で泣いたおさななじみの少女を。行きたくない、まだ死にたくない。そう泣きじゃくった佐里。なにもかも分かち合ってきた、櫛名田の親友。あれほど気兼ねすることなくわかりあえたのは彼女だけだったのに。気丈な佐里の泣くすがたが、櫛名田の頭によみがえった。残酷なあの日の別れの情景が目の前によみがえり、繰り返しくりかえし佐里の涙、嗚咽で震える細い肩を櫛名田におもいださせた。

 それらは雷のような激しさで、櫛名田を心の深いところからゆさぶるのだ。ただ、激しいばかりの雷とあきらかに違うのは、櫛名田の佐里へのおもいはけっして消えてしまわないということ。

(ゆるせない)

 佐里ののった輿は次の日からになり、ただひとつ櫛名田のおくった、木の実に紐を通した御統ばかりが落ちていた。まるで、忘れられたみたいに落ちていた・・・。

 大蛇神ははじける雨といかずちに照らされ、悲しみに歪んだ佐里の顔をはっきりと櫛名田におしえた。彼女のからだのなか、たちどころに火よりも熱い憎悪が生まれた。

「おのれ、おのれ」

 櫛名田の唇を割って、生まれて初めての罵りがとびでた。

「佐里を、わたくしの佐里を喰らったなっ!」

 それはまぼろしであったかも知れない。でも櫛名田のなかに、大蛇神に対する憎しみと怒りを教えるには十分すぎた。佐里は大蛇神にのまれたのだ。・・・その事実をなかばみとめてはいても、目の当たりにして確信するとなると、やはり衝撃は並々ならぬものがあった。

 幾人もの乙女たちを喰らってきた、禍つ神。それが目の前にいる。櫛名田は血の沸騰するようなめまいのなかに揉まれながらも、しっかりと足を踏み締めた。

(佐里、佐里、佐里)

「よくも」

 櫛名田は絶叫した。腹の底から声を絞り出す。それははらわたを絞りきってはなつ、心からのさけびだった。

「よくも、よくも!」

 櫛名田はにげなかった。胸を反らし、頭を高くあげた。大きく両手をひろげる。大蛇神をまっこうからにらみつける。目は閉じない、恐れたりしない。それが唯一のあらがいだった。

「死にたいのか」

 目を見開けたままの櫛名田のすぐ目の前で、悲鳴とも言いがたい大蛇神の放つ高い音があたりに響き渡り、やがて首が勢いをなくしてずるりと地に沈んでいくのがわかった。それと同時に櫛名田は胸にはしった鋭い痛みに悲鳴を上げた。まるで刃物で斬りつけられたかのような痛み。まばたきする間ほどの一瞬のことだけれど、まるで大蛇神の悲鳴に櫛名田の身が反応したようだった。ぼうぜんとする櫛名田の耳に、荷をたくさん詰めた麻袋を地面に落としたときのような、ずしんというくぐもった音が聞こえた。櫛名田の足元はにわかに地震のごとく揺れた。けれどそれらは、櫛名田にとってとても遠くのことのように感じられた。すべての音が遠ざかり、ただ、はりつめた糸を震わせる低い音が聞こえるだけだ。櫛名田は耳をすまそうとしたが、すぐに静けさは打ち破られた。

「目を合わせるな、魂を抜かれて喰われるぞ!」

 次の瞬間、頬をぶつ雨のいたみ、石つぶてに似た強さで激しくを身に打ちつけてくる雨の音にまじって、須佐ノ男の掠れがちの怒声が櫛名田をゆさぶり、彼女はようやく我にかえった。

「隠れていればよかったのに、無茶なことをする」

 櫛名田は胸をおさえたまま、その場にへたりこんだ。足ががたがたとふるえだし、立っていることがどうあってもままならなかったのだ。

「魂が抜かれてはいまいな」

 須佐ノ男は彼女の無謀に怒っていた。櫛名田のからだを乱暴に引きずると、川原の土手ちかくのおおきな岩陰に運ぶ。櫛名田はじぶんの足で歩くこともできなかった。大蛇神に真向かったとき、大蛇神の首が須佐ノ男によって落とされたとき。あの痛みはなんだろう。まるで大蛇神のうけた痛みが櫛名田にまでつたわったかのような・・・ただの思い違いだろうか。

 どちらにしろ、櫛名田はひどく具合がわるかった。雨にうたれた身体が冷えはじめたせいもあるかもしれない。情けないけれど、荷物かなにかのように引きずられることしかできなかった。

 全身に走る震えを押さえようとひざを抱え、まるでかみ合わない歯をどうすることもできないまま、櫛名田は目をかたくつぶっても大蛇神のあの真っ赤な目の色が忘れられそうになかった。あの、見るものすべての生命を思いのままにもできそうな、神威のある瞳。さっきの一時の無謀な勇ましさが櫛名田は我ながらおそろしかった。須佐ノ男が来てくれなければ、まちがいなく喰われていただろう。肉を、もしくは魂を。

 二人のもとに、またもや別の首が伸びてきた。須佐ノ男は川原の石くれを踏み蹴散らして大蛇神にむけて走りだし、櫛名田と距離を置いた。それから割鐘のようにあたりにひびきわたる声でもって、叫んだ。女装したすがたには全く似つかわしくなく、はげしい雨の音をものともしない、低くてよく通るこえだった。破れ鐘というのは間違いだ、と櫛名田はふとおもった。破れ鐘というには彼の声は耳にとても聴こえがいい。「出手母は肥川の大蛇神よ!」

 須佐ノ男に切り捨てられた以外の七つの首がこちらに集まってきた。七つの首は彼を取り巻くように、値踏みするように取り囲んでいる。長大な大蛇神にくらべて、ひとである須佐ノ男はあまりにちっぽけだ。なのに大蛇神はじりじりと首を近づけては離れ、離れては近づくことを繰り返し、すぐには飲み込んでしまわない。

 彼の呼びかけを聴いているというのだろうか、まさか。七つの鎌首がじっと彼を見下ろす様は、ぞっとしなかった。

 須佐ノ男は首をめいっぱ仰向かせて、大蛇神を睨みかえしていた。彼の右手には、大蛇神の血を滴らせるつるぎがあった。

「なぜに八百万の地主神の一柱であったおまえが、ひとを喰らうのだ。ひとの血肉は神の血を濁らし、汚すもの。なのにおまえはなぜ乙女らをもとめた」

 しゅるしゅると蛇の首が互いにこすれあう、衣擦れににた音がする。七つの首のうちのひとつが、一度いかずちの鳴り喚く天空を向いたかと思うと、急に下降して須佐ノ男の鼻先に巨大でみにくい蛇の顔をつきつけた。櫛名田は悲鳴を呑んだが、須佐ノ男はといえばその場から一歩たりとも動いていなかった。

《わっぱ、どうやらぬしは、ただのおのこではないようだな。わしと目交いおうても魂がつぶれぬとは》

 しわがれた声が聴こえ、櫛名田は瞳を瞠った。

《ほう、ぬしは高天原びとか。においがする、禍々しい血のにおいが。すべてを燃やし尽くしたあとの、くすぶる燠火のにおいがする》

 だれかの声がまた響いた。幻聴ではないらしい。嗄れていて、木の間を吹き過ぎる冬の風のような。しかもその声は耳に届くのではない。頭に直接ひびく、有無をいわさぬ強い声なのだ。

 大蛇神がしゃべっているというのだろうか。櫛名田は肌の毛がすべて立ち上がるような感覚に、我が身を抱き締めた。

《わしの声を聞こうとした人間は、久しぶりだ。おお、最後に山祇と口をきいてのち、幾年がすぎたのやら、年を数えるのはつらいことぞ》

 櫛名田は大蛇神のことばにその名が出てきたことにおどろいた。山祇とは、十七年まえ、ちょうど櫛名田が産まれるときに亡くなってしまった巫女さまの名だ。名前というより、山祇というのは、代々土地の大蛇神を鎮めてきた巫女の尊称なのである。櫛名田は山祇さまのことをまるきり知らないが、里人たちが山祇さまを語る声には、ふかい畏怖と敬愛があった。かの巫女さまは、大蛇神を鎮めることができた唯一の方だったと。

 里人たちは山祇さまのような大いなる巫女がふたたび鳥髪から出現することを心願していた。山祇さまの亡くなったあと、つぎの大巫女たる娘はあらわれなかった。それはあってはならないことだった。大蛇神を怒らすことだった。

《わしは喰ろうておらぬ》

 大蛇神はながくて紅い舌を乙女の領巾のようにひらひらとさせた。

《わっぱ。ぬしは思い違いをしておる。わしは人を喰ろうたことなど、一度とてありはせぬ》

「では、むすめたちをどこへやった。まさか隠したなどと言うなよ。冗談を語るにしては、ちと数が多すぎはしないか」

《わしはひとが獣を殺すようにせずとも、おお、なにも喰らわずともかまわぬ。ただ、わしが求めもせぬのにやってきたむすめたちが、わしをみて金切り声をあげ、みずからが産み出した惧れにこころを喰らわれてしまった。・・・帰れと再三言うたというのに、むすめたちにわしの声は聞こえてはおらなんだ。聞こうとする前に魂が実身をはなれ、黄泉路に旅立ってしまったのだからな。重ねて言おう、わしはなにも喰ろうてはおらぬ。あの哀れなむすめたちは、わしが喪してやった。地に還し、甦りの輪のなかにかえしてやった。むすめらのからだからは木の芽がはえだし、のちのち風をものともせぬ樫の大樹となるであろう》

「大蛇神が、佐里を喪した?」

 予想もしていなかった大蛇神の物言いに、櫛名田は息を呑んだ。大蛇神のしゃべることばは櫛名田が予想もしないことだった。だれが考え得ただろう、大蛇神が生け贄を望んでいなかったなんて。まったく信じられない。

《むすめたちの骸をまえにして、わしはようやく正気をとりもどす。川を鎮め、むすめたちを土に還す。だが、いつのまにか涙はまたあふれ、肥川を乱してしまう》

 大蛇神の言うことが正しいとすれば、佐里をはじめとしたあわせて十六人の娘たちは、みんな無駄死にだったというのか、そんなばかな!

「大蛇神よ、おまえはならば、なぜ肥川を乱した? なぜ泣くことがあるのだ。多すぎる雨は川べりの六つ里のひとびとを脅かすことだと知っていたろうに」

 須佐ノ男は叫んだ。大蛇神の十四の目は須佐ノ男をじっとみつめた。《乱すつもりはなかった。ただ、山祇がおらぬことが悲しかった。だから泣いておったのだ。青田が潤うこの季節に、山祇は死んだ。いいや、死んだとはおもわなんだ。なぜならばあのむすめの魂は、いつもわしのもとに寄り添っておったからな。なのに、十七年まえに山祇がいちど老いたからだを捨てたきり、わしのもとにあらわれなくなった。いままでの年月は、八千の大岩にもまさる重みでわしの胸を締めつけたのだ。

 わっぱよ、ぬしに斬られた首の一つがそこに転がっておるな、なのにわしはすでに痛みも感じぬ。身の痺れは、酒のせいだけではあるまい。山祇は、もう、鳥髪の地で赤子に甦りをはたしたはずなのだ。新しい命に甦りし、わしのもとにふたたび戻るはずであったのだ。それがとおい昔からの約束なのだから。わしの涙は肥川を乱した、それはあやまろう。しかし、わしとの誓いを反故にした里人どもが憎かったのはたしかなことだ。それとも、もはや山祇はわしのことなど気にかけぬのか、いいや、そんなはずはない。あってよいはずがない》

 禍つ神であるはずの大蛇神の声は、どうしてこんなにせつないのか。櫛名田はわけがわからなくなった。頭に響く大蛇神の声には、切なる悲しみばかりがあった。憎み忌むべき禍つ神に哀れをおぼえてしまうことに、櫛名田は驚いた。

《しかし、その想いもようやく充たされる。肥川のみだれはもうあるまいよ》

「なぜだ」

 須佐ノ男は戸惑いを口にした。

《そこにおる、わしの山祇が。待ちくたびれたぞ、わしのいとしい娘よ。わしが欲しかったのは、ぬしだ》

「いや」

 櫛名田は河原に両手をついたまま、じりじりとあとずさった。大蛇神の首のひとつがゆるゆると櫛名田に近づいてきたからだった。赤加賀智のにび赤くひかる目。ふたつの禍つひかりが、岩陰に身を潜ませる櫛名田をたしかに見つけていたのだ。

「十四こも目をつけていて、どこをみているのよ」

 櫛名田が山祇さまであるわけがない。あきらかな勘違いだ。せめて須佐ノ男のそばにゆきたいのに、腰にまるきりちからが入らないのがうらめしかった。

「大蛇神、この子は山祇ではない。おまえの巫女ではないんだ」

《何を言うか、高天原のわっぱめ。わしはこの子がほしい。この子だけを待っておった。おお、なぜ逃げる? わしがおぬしに害をなさぬということ、おぬしが一番よくしっているだろうに、山祇、こちらにおいで》「わ、わたくしは山祇さまではないわ」

 櫛名田は悲鳴を上げた。哀れを覚えたとはいえ、それまでの惧れがなくなってしまうというわけではない。なにより大蛇神の勘違いがそらおそろしい。

《何を言う? おぬしはわしと目交いおうても心を潰さなかったではないか。なにより、わしの声が聞こえるではないか》

「わたくしは櫛名田よ」

 櫛名田は叫んだ。

「尊い巫女さまとまちがえるなんて、どうかしているわ」

 欲しい欲しいと言われたのは初めてだが、相手がよりにもよって大蛇神であったときはどんな断り方をすればいいのだろうと、櫛名田は混乱の中で考えた。少なくとも櫛名田のために歌や贈り物くれたりする相手ではないことは確かだ。ただ、あまりこの神を刺激するようなことはしゃべらない方がいい、それだけは決心した。すぐに反故になってしまいそうな、すこぶる頼りない決心ではあったけれど。

《櫛名田か、ではそう呼ぼう。よいか、おぬしが巫女であろうとなかろうと、わしにはおぬしが尊いのだ。おぬしが欲しい・・・おいで、こちらへ。おぬしがのぞむなら、ひとに身を変え、ひととしていつまでもおぬしのそばに居よう。まえのように、おぬしとともに生きよう》

「あ・・・」

 櫛名田は顔をしかめた。大蛇神の言葉は祝詞のごとくおごそかに、そしてやわやわしく櫛名田の耳に響くのだ。櫛名田の頼りない決心など簡単に打ち壊すつよいちからが、その声にはあった。

《わしは待っておった、おぬしだけを。おぬしの物怖じせぬそのうつくしい瞳だけを待っておった》

 櫛名田は糸に引かれるくぐつのごとく岩陰からふらりと立ち上がった。さっきまで腰が立たなかったのがうそのように、櫛名田はしゃんと立ち、歩きだしたのだった。心の臓が高なり、足がひとりでに大蛇神のもとに吸い寄せられる。櫛名田が望んでいるのではない、けれど、引き寄せられる。それはもう理屈ではなかった。まるで櫛名田の血や肉が覚えているように、こころが拒んでも身体が大蛇神により添わんとするのだ。遠い昔からの約束を果たそうとするように、櫛名田は大蛇神に歩み寄っていった。

 雨は相変わらず激しかった。雷も鳴り止みはしない。ただ、櫛名田の耳には大蛇神の声音だけが、愛しい者の持ち物のようにひびいているだけだった。よろよろと歩く櫛名田は、やがて何かにぶつかった。腕を取られて引き寄せられ、だきしめられた。つよいつよい抱擁だった。櫛名田は満たされた吐息をつく。これは大蛇神のからだだろうか、さっきもちらりと言っていたように、ひとに化身して櫛名田を抱いているのだろうか。

 それにしてもなんて安らぐのだろう。お互いにずぶ濡れであろうと、肌の温もりが櫛名田のこころを満たした。たくましい腕で支えてくれるものがある安堵に、櫛名田は目を閉じた。

「目を覚ますんだ。あなたは大蛇神の妻問いを受けるつもりか」

 だれか男の声が耳元でひびいた。櫛名田は目を綴じたままつぶやいた。「だれだっていいわ。大蛇神だってかまわない。どうせ、わたくしをこんなに欲しがってくれるのは、大蛇神くらいだもの」

「目を覚ませ」

 憮然としたように男は言った。櫛名田は薄く目をひらいた。

「ああ、なんだ。あなただったの」

 すると須佐ノ男は不服そうにつぶやいた。

「わたしでは不満かい」

 櫛名田は彼に聞こえるか聞こえないかの小声でつぶやいた。

「いいえ」

《わしの櫛名田に触れるでない。高天原の汚れた血のおのこが》

 大蛇神の七つの首が吠えた。須佐ノ男は櫛名田を抱いたまま、剣のつかを握りなおした。

「この娘はひとで、おまえは大蛇神。そんなまぐわいがうまくゆくとおもっているのか。ひとはひとの中で暮らすのが一番よいことだ、おまえはその幸せを、おまえの都合でむしり取ろうとしているにすぎない」

《だまれ、わっぱが!》

 大蛇神が牙をむいた。

「黙るものか、黙らせたければわたしを殺してみろ」

 挑むような須佐ノ男の声をごく近くで聞きながら、櫛名田は身体がふるえだすのをとめられなかった。

「やめて」

 櫛名田は彼の腕の中でさけんだ。

「やめて」

 櫛名田の知り得ない深いところ、もっと別なところにある感情が、櫛名田にそう言わせていた。おかしなことに、須佐ノ男が傷つくのを恐れているのではなかった。櫛名田が恐れているのは、なんと大蛇神の悲鳴だったのである。まったくおかしなことだった。

「説得はむりだ、比売。なればわたしは、この盲いの大蛇神を斬りすてるしかない。あなたを恋うあまりに盲いとなった、この大蛇神をな。あなたを無事に里に連れ帰るためだ」

 須佐ノ男は早口で言った。大蛇神は二人がくっついているせいか須佐ノ男だけに手が出せず、まわりをぐるぐるとむなしく巡っているだけだった。

《呪おうぞ、呪おうぞ、呪おうぞ》

 大蛇神の恨めしげな声がいくどもいくども、それこそ幾千度つづいたかにおもえた。それは恐ろしげではあったが、どこか悲しかった。櫛名田は須佐ノ男の腕のなかで身じろぎをした。彼の背丈は櫛名田よりも頭ひとつぶんはゆうに高く、大蛇神に聞こえる大きな声を出すにはままならないのだった。

「もうやめて、大蛇神」

 櫛名田は須佐ノ男の腕から身を乗り出すようにして、声をはり上げた。

「ごめんなさい、わたくしはあなたの山祇さまではないの、あなたのものではないの」

《では、だれのものなのだ》

 呪おうぞ、の声が止んだ。櫛名田は心を落ち着かせながら、さとしきかせるように言った。

「わたくしはだれのものでもない。わたくしは物ではないもの。わたくしはだれの持ち物にもならないわ」

 彼女がそう言ったあと、大蛇神のひくい笑い声がひびいた。頭の中にみにくい笑い声が割れ鐘のようにひびいた。

《あいかわらず甘いの、山祇、いいや櫛名田よ。そこの忌々しいわっぱは、高天原のおのこぞ。わしは知っておるよ、高天原がこの山に分け入り、木を薙ぎ獣を追い払い、地を掘り起こそうとしておるのを。この山は高天原びとが欲しがるものを与えてやることができる。しかしそれを与うることは、おぬしらがいう明の戦をこの芦原の中津国にいや栄えさせる事ぞ。この山はけっしてあけわたしてはならぬところなのだ、ひとのために》

「いかにもわたしは高天原びとだ。しかし、それがなんだ。わたしは高天原をすてたおとこだ、帰る故郷をなくしたおとこだ。高天原は関係ない。それに、この山になにがあるというのだ、大蛇神」

《鉄》

 みじかく放たれた答えに、須佐ノ男は目を見開いた。

《この出手母の山々にはそれはたくさんの鉄の砂が埋まっておる。その砂の粒のかずだけ、ひとのいのちは失われるだろう、明の戦によって》「どういうこと」

 櫛名田は訊いた。大蛇神のくちぶりはまるで、たくさんの赤い血が流されるゆえにそう呼ばれる、明の戦をひきおこす火種がこの静かな山々にあるように言っているのだ。

「わからないわ。どうして高天原が山をほしがるのよ。それに、戦に役立ちそうなめぼしいものなんて、なにもないじゃない」

 山々は静かにそこに座っているだけだ、それに、てつとはなに?

《鉄とは、おそろしい武器だ。ひとを傷つけ殺める業物よ。鉄の価値はまだよくは知られてはおらん。高天原でも知るのは一握りであろう。しかしじきにあきらかになろうよ。そのときになれば明の戦をなにより好む高天原びとが、この山を荒らさぬはずがない》

「誤解だ、それは」

 須佐ノ男が大蛇神をにらみあげならが言った。

「高天原びとがむやみに血を求めているわけではない。まつろわぬひとびとを鎮めるための戦をしているだけだ。鎮めねば、いずれ高天原がのっとられるだろう」

 大蛇神はそれを聞くと牙を剥いたすさまじい形相で唸った。

《ふん、血を求めはせぬが、地がほしいというわけか。笑わせるな、なによりぬしら高天原びとは、神を領履こうとしているではないか。おぬしも、そら現にの。わっぱ、おぬしはやはり高天原びとだ。ぬしは櫛名田を手に入れ、ひいてはその里を手に入れるつもりだろう。おお、高天原びとというのは恐ろしいものよ。櫛名田、よいか忘れるな、この男は高天原びとぞ。腹黒い高天原のおのこぞ》

「わたしは高天原を捨てたのだ。それどころか、高天原から追われる身なのだぞ、そう言ったはずだ」

 須佐ノ男は閉口していった。

「わたしが高天原びとだから信じられぬのか。たしかにわたしは高天原の神薙だ。神を滅ぼしたことも一度や二度ではない。しかしわたしが斬った神は、みな人を喰らうようになった落ち神ばかりだ」

《神々をおとしめたのは、どこのだれぞ。なにが落ち神だ。ぬしら高天原の炎の末裔が巫をもちい、神を殺し続けてきたのは、ひとえにみずからの繁栄のためではないか》

 櫛名田はかぶりをふる。

「大蛇神、このひとを信じるかどうかはわたくしが決めることよ、どうか認めて。このまま鎮まって。この山はけっして荒らさせない、高天原びとの欲しいままにはさせないから」

 大蛇神の七つの首、十四の紅い目が櫛名田を見つめている。彼女はかれらを真摯にみかえした。

《おぬしは高天原のおそろしさを知らぬのだ》

 大蛇神の声は悲しみに沈んでいた。

《纏向の高天原という土地は、おぞましい場所なのだ。炎の末裔が支配する、神無しの土地なのだ。高天原びとは明の戦を好むということ、おぬしも知っておろう。むやみに土着のひとびとをいたぶり殺すその所業は、炎の神の末裔である者たちに受け継がれる、荒魂がさせることなのだ。もはや凪の血はうすれ、ふたたび炎の神の時代がやってくる》

 大蛇神の首の一つが、赤加賀智の真っ赤な目をぎょろりと動かし須佐ノ男に牙をむいて威嚇した。

《わっぱ、ぬしもわかっておろう。ぬしが高天原を捨てたのは、炎の末裔の荒ぶる血が疎ましかったせいであろうに。ぬしの姉との禁忌も、その血がさせたこと・・・》

「だまれ」

 櫛名田を抱く須佐ノ男の腕のちからがひときわ強くなった。耳元で響いた彼の大声のせいで、櫛名田は大蛇神のことばのすべてを聞き取れなかった。須佐ノ男は感情をおさえたせいか、掠れがちの声で叫んだ。

「神というのはそのようにおしゃべりなものなのか、まるで分別を知らぬ若子のような!」

《故郷から逃げ出してきた腰抜けの言い分など、聞きとうない》

 大蛇神はなにやら疲労をにじませた声音で言い継いだ。

《高天原の荒魂に長く触れおうておるのは、ひどく疲れる。いいだろう、わしは眠ることにする。ただしそのまえにわしと誓約をせい、わっぱよ》「誓約だと」

 須佐ノ男はかわいた唇をしめらせた。知らぬまに雨足は弱まりはじめ、いまや雷の音もひとつふたつ遠くの空でひびくばかりだった。

《簡単なことだ》

 大蛇神はひととき、櫛名田をみつめた。彼女はなにがおこるのかと、須佐ノ男の腕に取りすがり息をひそめていた。

《わっぱよ、けっしてこの子を不幸にするな。もしもこの子の泣く声が聞こえたならば、わしはぬしを今度こそ喰ろうてやる。骨を腹で溶かし、血肉をわしの糧としてやろうぞ》

「脅しにしてはなさけない声だな、大蛇神」

《黙って聞いておれ、わっぱめ。よいか、覚悟がないのなら、疾く鳥髪から立ち去れ。この子はそこいらに転がる、ただの娘ではない。なにより愛しいわしのむすめなのだからな。さあ、決めるがよい。 ぬしが鳥髪にとどまれば、のちのち高天原に敵することと同じだ。ぬしの同母姉、天照にあだなすこととおなじなのだぞ》

 須佐ノ男はしばしの沈黙のあと、きっぱりと言った。

「言っただろう、わたしは故郷をすてたと。そして、わたしはあたらしい故郷をみつけた」

 須佐ノ男は腕に抱いたままの櫛名田の耳にささやいてきた。

「わたしの故郷に、より所になってくれるかい、比売」

 櫛名田は、なにやら胸が熱くなり、息をつぐのにもひどく苦労をした。須佐ノ男の声のやさしさとあたたかさが、櫛名田の身すべてを柔衾のように包んでくれるのを感じたせいかも知れない。

「なってあげてもいいわ」

《おろかないとしい、櫛名田よ》

 大蛇神はおごそかに言った。

《おぬしが選んだからには、わしはもはや何も言うことはない。とめることもできぬ。それが滅びの道であろうと、なんであろうと》

「滅び?」

 櫛名田は禍言をききとめ、つぶやいた。大蛇神の言葉のほんの一片が、櫛名田の心にとげのように残ったのだ。 

《わっぱ、ならばこれをもって行け》

 大蛇神はひととき、天高くまで響き渡る悲鳴のごとく、咆哮をした。喉元が奇妙なかたちに盛り上がり、やがて紅い口元からなにかを吐き出した。何かは河原の石と石とのあいだにうまくつきささり、そのすんなりとした細長いすがたをふたりのまえにさらした。みずから淡いひかりを放つ物体は、櫛名田の瞳にやさしいひかりを投げ込んでくる。大蛇神の瞳のような赤加賀智の色彩は、激しくありながら、穏やかなのだった。神というものの本性を櫛名田はひかりのなかに見たような気がした。

《川の水で血を洗い流すがよい》

 大蛇神はしゃべるのも億劫なようで、そうとだけ言った。

《それはわしのいのち。わしのたましい。わっぱよ、それをもって行くがいい。おぬしが櫛名田を愛しみまもるならば、わしのたましいはぬしにふりかかるあらゆる禍事の盾になるだろう。高天原の追手から、ぬしを盾してやろう。しかし、ぬしが櫛名田を悲しませることがあれば、わしはぬしを殺す。八千に引き裂き、二目と見られぬ醜い屍にしてやろう。それが覚悟できるのなら、もって行け。心から高天原を厭うのならば、わしの心はぬしに寄り添うことにしよう》

「おまえがわたしを護るというのか、それにこれはなんだ」

 大蛇神がみずからの腹から吐き出したそれは、夜闇のなかでもほのあかくひかっていた。形だけから見ると平型のつるぎのようだった。

《これは剣よ。蛇の身から生まれたとて、朽ちた縄のごときの脆さだとおもうな。八千の矛にもまさる、強い剣よ・・・》

 須佐ノ男はものをいわぬまま、そのつるぎの握りの部分を手に取った。その瞬間、大蛇の剣の放つひかりは昼間の太陽のようにひときわあかあかしく輝き、そのあと月光のひかりよりもあわくかがやいたまま、須佐ノ男の手に収まった。

《よかろう、ぬしのこころには、曇りがない。不服だが、櫛名田はぬしにあずける。人の世に、つれてゆくがいい。わしはもはや、櫛名田をまもれぬのだ》

「大蛇神」

 櫛名田はさけんだ。頭に響く大蛇神の声音が急に力をなくし、寄せては返す眠りのさざなみに飲まれるように、いまにも消えていきそうに思えたせいだった。

《わっぱ、いいや須佐ノ男よ。おぬしには、抗いがたい運命がある。わしはそれに何の干渉も、できぬ。たとえ、たとえいとしい櫛名田が、おぬしのさだめに関わろうとしようとな。よいか、わしは櫛名田のために、このつるぎを渡すのだ。さだめにしたがって》

「さだめとは、なんだ」

 須佐ノ男は問うた。

「わたしのさだめとはなんなのだ、大蛇神。どうか、教えてくれ。教えていただきたい。わたしは一度、高天原から・・・さだめから逃げ出した、尻尾をまいて。そんな男には、さだめという言葉はおもすぎる」

《甘えるな、わっぱ。ぬしのさだめは終わってはおらぬ。これからぬしは逃げ出したさだめと戦うことになろう、それも近いうちに・・・そのときは逃げることはならぬ。逃げることは、死に落ちることぞ。よいか、さだめを待て。おぬしらの立ち向かうべき、さだめを待つのだ》

 大蛇神の声がぷつりととだえた。まるで糸の切れたように。櫛名田はこころの奥底から湧き上がる不安に身を震わせた。それは痛みとともにやってきて、どんなことをしても振りはらえそうになかった。雷もどこかへ去り、この暗い闇の中、ゆいいつのあかりだった大蛇神の十四の目の紅いひかりさえも消えてしまった。いまは大蛇神の魂だという剣が須佐ノ男の手の中にあり、そのつるぎが彼の手のなかでひかりをはなっているばかりだった。

 櫛名田はまぶたが熱くなるのを奇妙な気持ちで受け入れていた。あんなに憎んでいたはずの大蛇神。禍つ神と罵ったことは数え切れない。なのに、櫛名田はあの大蛇神のために泣こうとしている。大蛇神の死を身を斬られるような寂しさでもって感じているのだ・・・。

 大蛇神の七つの首が先を競うがごとく、ささえる力を無くして川原に倒れてゆく。川面をはげしく波立たせる。

 大蛇神の魂であるつるぎが須佐ノ男の手にある。すなわち大蛇神の体は魂をなくして死んでしまったのだ。ひとの身が魂をなくしたあとには朽ち果てるだけなのと同じように、神にとってもこれは永久の眠りではないのか?

 ずしん、ずしん、とあたりを震わすはげしい地震のなか、櫛名田は流れ出す涙にも気づかなかった。悲しくはない、むしろ大蛇神が鎮まることに安堵してさえいる。それに大蛇神はやはり櫛名田にとって、佐里を殺したにくむべき相手なのだった。なのに、櫛名田は泣いた。 
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