岩姫異聞2

2012.04.10.Tue.03:56
 伊吹の笑みは五つの童男のものではなかった。肩までの髪が風に吹かれて、一瞬その表情を隠した。再びその目を見たとき、王はすでにわき起こるおそれにどんな言葉も出てこなかった。しかし、心のどこかでそれを静かに受け止めてもいるのだった。
(伊吹は、やはり・・・・・・)
 顔を高く上げたその姿は、伸びやかだった。人々の中でどこか居心地悪そうに背中を丸め、いつも目を伏せている伊吹は、五つという齢よりずっといとけなく見えていたのだった。
 地を何かが引きずられるような音を聞きとめた王は、落ち着かなくなった明星の首を強くなでた。己の手もふるえている。
 風が変わった。どこか生々しい、腐肉のにおいがする。
 おぼえがある。身をさすようなおそれは、口で言い表せるたぐいのものではない。
 怒れる土地神のお出ましだ。
「伊吹、戻るのだ」
 振り返った伊吹の目はまっすぐに岩長王をみつめた。もともと整った顔立ちをしている子だが、表情のいっさい消えた面は神懸かりしているとしか思えない不気味さだった。
 唇が動く。この地が欲しいか、と。
 おそれが腹の底からわきあがってきた。戦場で向き合うのとは、まったく別のたぐいのおそろしさは、まさに畏怖とよぶべきものだろう。岩姫亡きあとどこか遠くなり、隔たれていた神の存在をこれほど近くに、肌が泡立つほど危ういものと感じたのは久しぶりだった。
(愚かだった。連れてくるのではなかった)
 後悔が胸をかき乱した。神に目を付けられてただで帰れるわけもない。
 禁忌を破るおそろしさを知らないわけではなかったというのに。
 何の理由もなく、祖母が何かを禁じたことは一度もなかったことを今更のように思い出しても、自分のうかつさがいっそう呪わしくなるばかりだ。
 一歩後ずさったとき、右の足が深みにはまって王はよろけた。明星がいなないた。四足に小さな白い蛇が巻き付いている。
 その無数の蛇はどこから這いでたのか、湿地を埋め尽くさんばかりにうごめき、不用意に神の領域に入り込んだ愚か者を湿った地の底に引きずり込もうとしているかのようだった。
「伊吹!」
 小さな孫はあっけなく飲み込まれ、倒れ伏したのか姿も見えない。身に巻き付けていた浅葱色の襲だけが、水面に浮かぶ木の葉のように蛇たちのぬらぬらと光る背のうえに現れたかと思うと、また飲み込まれていった。
 岩長王は叫んだ。
「神よ、その子は我が孫にして、一族の宝」
 小蛇を払い、身を振り絞るようにして王は続けた。
「おいそだてば、いずれは日向う国を導く王となりましょう。怒りをお鎮めください、地にある生きとし生ける者を愛おしむ、女神をあがめる末裔に、ご容赦を、どうか」
 王の声が原に響き、消えるころにようやく、こたえが返ってきた。

 「闇の末裔よ。そなたの孫は、なんと輝の血が濃いことか」

 割れ鐘のようなおぞましい笑い声が聞こえた。どこから聞こえてくるものか、よくはわからなかった。地を埋め尽くしのたつ蛇の腹の擦れ合う音が、そのまま音をなして声となったようだった。
 王の腕に巻きついた白い蛇が、鎌首をもたげて赤い目で王をにらみつけた。

 「岩長彦、日向びとの長よ。遠い昔、我は輝の御子により長の間、鏡に封じられた。だが、眠りを覚ましたのもまた輝の御子だった。輝でありながら闇の道を知る、変わった御子だ。この童男からは、それと同じにおいがする」

 神の前では、真実を言うしかなかった。
「いかにも、その子は前の大王の御子。大王家の始祖たる風の若子と水の乙女の三代のちの、直系の子孫だ」
 本来なら伊吹は日嗣の御子として、まほろばで大勢にかしずかれていたはずだ。それが無惨にも父たる前の大王を、叔父にあたる人に殺された。
 伊吹の身に障りがなければ、伊吹の命は摘まれていたかもしれない。
(おろかなことだ)
 前の大王とそれを殺した人は、双子の兄と弟。
 もっとも近しい者同士が、御座をめぐって争うなど。和やかに結びあった風の若子と水の乙女の思いは、反故にされたに等しいではないか。
 
 「なるほど、なるほど。では、そのときがようやく来たのか」

 にわかに声は穏やかになり、いつしか小蛇どもは草陰めざして四方に散り、波が引くようにいなくなった。
(助かったのか)
 すぐそばで泥にまみれて倒れていた孫を抱きかかえると、青ざめてはいるが息はしている。ただ気を失っているだけのようだ。
「伊吹。伊吹よ!」
 体をゆすると、童男はひどくおっくうそうに目を開けた。そうして、王をいつものまん丸まなこで見つめると、泥によごれた顔のまま、にっこりと笑った。
「・・・・・・わたし、大きなしろい蛇、みた」
 唇の形を読むまでもなく、伊吹は澄んだ声でそう言った。
「おじい?」
 孫の声を聞くことを、ほとんどあきらめていた。
 しかし、耳に届いた子どもっぽい、どこか甘えた声を聞くと、あふれるような喜びがこみ上げてきて、目の前がにじんだ。
「わしは、ちいさな蛇をたくさんみたぞ。しかも、まっしろな奴を。なあ、明星」
 ひたいの星をこすりつけるように馬面をよせてくる黒鹿毛を、まだ震えのおさまらぬ手で撫でると、王は鼻をすすって目元を腕で拭った。
「おじいが明星になった」
 泥が顔についたのを見て、伊吹は声を上げて笑った。
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