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幽ノ弐サンプル1 心火(しんか)

Category勾玉の本
 足音をころすようにして、ゆっくりと寝間に足を踏み入れた稚羽矢は、灯台に揺れていたちいさな灯りを吹き消した。足下があやうくならないのは、明かり取りの高窓から、ほんのすこし月の光がさしてくるからだ。
 今夜は雲もない。明るい月を愛でての宴に、形ばかり杯をかたむけ、座が崩れたときに静かに抜け出してきたのだ。
(間に合わなかった)
 とうにやすんでいるとは思っていたが、稚羽矢はずいぶんがっかりして、ためいきをはいた。
(しばらく声を聞いていない)
 狭也の笑い声を耳にしていない。やさしく頬をなでてくれる手にふれていないし、はにかみながらほほえむ顔を見ていない。
 仕事が多すぎるのだ。やるべきことがあとからあとから出てきて、それをなんとかこなすうちに、日はすぎてしまう。一日はたいそう短い。
 朝がくれば狭也はいつのまにか起き出しているし、夜はこうして寝顔をみることしかできないのだ。
 せっかく寝息をたてているのに無理に目を覚まさせるのもなんとなく気が引けた。狭也とて日中はなにくれとすることがあるし、役割もある。
(大王なんて、この世の何よりままならぬものだ)
 ほんの一時、眠る人によりそって目を閉じるときしか、ぬくもりを感じられない。それはずいぶんつまらなくも腹立たしいことだ。
「狭也」
 上掛けをめくって、といた髪の流れる首すじに唇を押し当てると、とくとくと脈を打つのが伝わってきた。背中から腕を回してすべすべした手を握りしめ、身じろぎもしないで眠る人をだきしめた。
 しずかに目を閉じてみたが、ちっとも眠くない。それどころか、昼間は忘れていられるたぐいの不足が、今こそ思い出されて、本当に困り果てた。首もとのやわらかそうなくぼみから、稚羽矢はむりやり目をそらした。髪に埋めていた顔をそむけて、手をそっとはずし、背を向けて再びきつく目を閉じた。
 このままふれているとあとで狭也をひどく怒らせるようなことをしてしまいそうだった。月の淡い光をうけ、夜のそこに沈んでいるような狭也のしどけない寝姿とおだやかな顔は、何かもの言うわけでもないのに稚羽矢を落ち着かなくさせ、胸の鼓動をはやくさせるのだ。
「稚羽矢」
 息がとまりそうになった。
 振り返り顔をのぞきこんで、ただの寝言だったとわかっても、思わず笑みがもれた。
 しろいひたいから眉のあたりを視線でなぞると、まるで何かを感じ取ったかのようにまつげがふるえた。軽くひらいた唇が、まぐわいのときに甘い声をもらすのと同じ形だと気づいても、苦しいような気がするだけだった。いつもぎゅっと口をつぐんで声を出すことをこらえる狭也は、それでもたえきれずに息をつくとき、ほんのすこし唇をひらくのだ。そのわずかなすきが、口づけをこいねがわれているように見える。
 ひかれるように口づけをした。しかしおののきも震えもしない唇に触れても、それ以上に探りたいという気持ちがわいてこない。むりにでも押しさいて、熱をぶつけたいと思うほどの激しさは、すぐ近くにあり手が届きそうなのに、つかめないのがもどかしかった。
 胸を焦がす火を消してほしいのに。熾火をかき立てた人は、すこやかな寝顔でどんなよい夢をみているのだろう。
(せめておなじ夢をみられればいいのに)
 ため息ばかりがこぼれた。
  
 
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