岩姫異聞1

2012.04.03.Tue.14:21
今年五つになったばかりの孫の姿を探して、館のはずれの垣根のそばまでやってきたのは日向の郷長だった。
 大山神との呼び名にたがわず、岩長王はただびと離れした長身に肩幅は並の男の二倍はあり、腕も足も館に立てる真木柱のように太かった。
 そんな巨体を小さく縮め、垣根にあいた不自然な穴をのぞき込んでいた王は、花橘の白い花が咲くあたりにしゃがみこんだ小さな背中をみつけてほほえんだ。
 垣根を迂回するのが面倒で穴をくぐろうと体を縮めたが、いささか押し広げたせいで垣はむざんに壊れ、その音を聞きつけて孫の伊吹がぱっと顔を上げた。
 白いものがわずかに混じった頭に葉っぱをくっつけた祖父の姿を見て、伊吹は笑顔になったものの、壊れて曲がった垣をみて、少し心配そうに眉をさげた。
「またそなたの母に叱られるな」
 何度もうなずく伊吹をうながして、王は歩きだした。
「伊吹よ、何を見つけたのだ?」
 衣をひかれて白い花びらの落ちる地面をながめると、小さな蟻の行列が黒い糸のように茂みの方へ続いているのだった。
「蟻か。そなたはこの小さき虫の、一体何がおもしろいのだね」
 伊吹が細い首をかしげると、肩あたりで切りそろえられた髪が白い頬にかかった。大きな目に薄い唇をして、髪も結わないせいか伊吹は童女そのものだった。五つともなれば生意気な口の一つや二つ飛び出して来るものだが、この子は何があろうと巌のように押し黙っている。
 両手を大きく広げ、伊吹は空を仰いだ。かと思うと、急に我が身を抱きしめるように体を小さくし、しゃがみ込んだ。
「それでは、わからん」
 岩長王は苦笑いをした。口のきけない孫は、豊かな表情や仕草で色々と伝えようとするのだが、これの母のようにはうまく読みとれない。
 伊吹は困りきった祖父をみて、にっこりと笑った。何か通じないことがあったとしても、伊吹はかんしゃくを起こすということがない。この邪気のない笑顔をみていると、里の誰しもが難しい顔をしてはいられなくなることを王は承知していた。
「そなた、体の調子はもうよいのか?」
 三日も風邪で寝込んだとは思えないすっきりした横顔をみつめながらたずねると、伊吹はうなずいた。ひたいには髪が張りついている。夏を迎えた今頃は、早朝でも少し動けば汗ばむほどだ。ひたいに浮き出た汗も拭わずに蟻の行列を再び注視しはじめた孫を、王は急に抱き上げて、やや乱暴に肩に乗せた。
 突然のことに驚いたように、伊吹は頭にぎゅうとしがみついてきた。いとこの生玉姫なら、肩に乗せれば大はしゃぎする。まるで山の上から国見をしているみたい、空に手が届くかもしれないと、無邪気に笑うのだ。
 しかし、伊吹の笑い声は一度も聞いたことがない。泣くときも、笑うときも、伊吹はただしじまの中におり、それを不満にも思わないのが哀れだった。
 生まれつきの障りだろうというのが周囲の人々の見解であり、それでもさとく穏やかな伊吹の気性は愛すべきものとして見守られてはいる。
「そなたに見せたいものがあったのだ。顔を貸せ」
 垣根の向こうにつないでいた黒馬に伊吹を乗せると、戸惑ったように揺れていた瞳が輝いた。
「そなたはわしの肩より馬の背が好きか」
 大きくうなずく孫の頭をなでながら、岩長王はこっそりとため息をはいた。
 声をあげられないということは、しぜんと忘れ去られるということでもある。伊吹のいとこにあたる三つ年上の姫は、じつにやんちゃに館じゅうをはねまわる。人々は姫に気を取られ、しばしば伊吹のことをあとまわしにしてしまうのだった。
 王は襲で伊吹の小さな体を包むと、手綱をあやつりたちまちに黒馬を風のように走らせた。王の巨体を支えられるのは国広しといえども、この明星だけだろう。
 夏の香りが混じった風が頬をなでていく。
馬のたてがみにしがみついていた伊吹は、ふと顔を上げて見えたものに驚いたように、体をひねって王をみつめた。
 「や、ち、ま、た」と動いた唇に、王はうなずいてみせた。道がいくつにも分かれる辻は、国の境目でもあった。ひときわ広く整えられた道は、はるか遠くまほろばへと続く貢ぎ物が通る道だ。馬足をとめて、王はたずねた。
「まほろばにいたときのことを覚えているか」
 すると、伊吹は自信がなさそうに首を傾げた。ややあって、振り向いた顔は嬉しそうに笑んでいた。「あ、り」と動いた唇をみて王はこらえきれずに笑いだした。
「どこでもそなたは変わらんな」
 目をまんまるに大きくした伊吹は、それでも体に響くような笑い声を聞くと楽しげに目を細めた。
「さあ、寄り道をすると朝飯に間に合わぬ。そなたを案内したいのはこちらの道だ」
 明星の鼻先を木々の茂る細く暗い道に向けて、揚々と岩長王は言った。道とはいえど、ほとんど誰も通らないけもの道だった。木の枝を払い、崩れてでこぼこになったところをまたぎながら進んできたところで、きゅうに視界がひらけて青空が広がった。遠くには青く美しい山々が見える。
 明星のひづめが、やわらかな草のしとねにじゅう、と沈んだ。馬上からおりると、足跡がくっきりとついて水がしみだしてくる。そこは、広々としたすばらしい土地なのだった。
「どうだ、こんな場所を見たことがあるか」
 かがみこんで顔をのぞき込むと、伊吹は頬を赤くして、目を輝かせていた。
「そうか、そうか。気に入ったか」
 伊吹は足跡をつけるのに夢中になったようで、ゆっくりと歩きだした。
「ここには古くから住まう神がいらっしゃる。ゆえに耕せぬのだ。すぐそばには水源もある。どうにかして神のゆるしを得て、ここを田にしたいものだと思っておるのだ」
 大勢の郷びとをかり出して水を引き、あぜ道をつくる。田をおこせば豊かな実りが得られるだろう。あのけもの道を整備し、近くに村をたてたいと、常々考えていたのだ。
 「ほしいか」耳の奥に、色あせない巫女の声がよみがえった。岩長王は幼い頃、祖母にここを教えられたのだった。彼女は一族を導く大巫女であり、王にとっては師でもあった。多くのことを知り、動じない心で皆の尊敬を集めていた祖母を思うと、身が縮んでいきそうな不安にかられるときがある。
 岩姫という指導者を失ってからまもなく、まほろばでは大王の御座を奪い合う戦がおこった。その動乱のさなかに生まれた伊吹は、母とわずかな供とともに、遠く日向に逃れてきたのだった。
 ふと、遊びやめて振り返った伊吹は、王が驚くくらいの真剣な顔をしていた。唇がこう動いた。

「ほ、し、い、か」

 奇妙な寒気を感じて、王は目をみはった。
孫が時々何かをその身に降ろすことを、王は知っていた。だからこそ、この湿地を見せようと思ったのか。いや、伊吹がただ喜ぶところを見たかったのか。
「ほしい」
 王ははっきりと告げた。すると、伊吹はうなずいて、片頬だけをゆがめるようにして笑った。
 それは、たしかに五年前に亡くなった一族の大巫女、岩姫の笑みだったのだ。
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