アンケートお礼再録 うぬぼれや

2012.04.02.Mon.05:26
 うまれる前のことを、あたしたちはみんな忘れてこの世にくるのですって。
 もちろん、岩姫さまのように覚えている人もいるわ。
 でも、そちらのほうが珍しいと思う。

 ぜんぶ忘れて、大好きな人も、大切な思い出も、やりのこしたことも。
 けれど、ときどき思いだすのよ。

 はじめて見た場所、はじめて聴いた声のはずなのに、理由もわからずに泣きたくなったり、楽しくなったりするとき。
 そんなときは、心の奥ふかくに刻まれたいつかの出来事が、体を揺さぶる。
 涙が出たり、胸が痛くなったり、気になって目が離せなかったりするの。



「ねえ、どうしてそんな顔をしているの?」
 狭也はきゅうに押し黙った稚羽矢にたずねた。
「なんでもない」
「なら、どうして怒っているの?」
 狭也がとりとめのない話をするのを、稚羽矢は微笑みながら聞いていたのだが、突然うつむいてしまったのだった。
「怒っているんじゃない。ただ、すこしだけ面白くないと思っただけだ」
 狭也は、そっと夫の手をとった。
「何度も生まれ変わるとしたら、前の世であなたは誰の手をとっていたのだ」
「……あたしはうぬぼれやではないけれど、今だけなら手放しで喜んでもいいかしらね」
 稚羽矢は目を細めた。
「うぬぼれる?」
「得意になるということよ。あなたが妬いてくれたようで、なんだかうれしいの」
 稚羽矢は狭也の手をぎゅっと握った。
「うれしいのか。わたしは、落ち着かない。前の世までいって、あなたの手をこうして取ることはできないから」
「そうね、無理だわ」
 きっぱりと、狭也は言った。
「あなたに出会ったのは、あたしですもの。あなたをこれほど慕わしいと思うあたしをさしおいて、よそをみてはだめよ」
「ふうん」
 稚羽矢は笑った。
「わたしも、うぬぼれやというものになれそうだ。あなたがこうして、ずっとそばにいてくれるなら」
関連記事
コメント

管理者のみに表示