アンケートお礼再録 ちいさな手

2012.04.02.Mon.05:22
 赤子というものは、こんなにやわらかいものだと思わなかった。

 こわれやすそうで、どこもかしこもくたっとしている。稚羽矢はおそるおそる腕のなかに抱き取ると、しわのよった小さなひたいに鼻をよせた。

 けぷっと吐き出した息は乳のにおいがした。手のひらですっかりかくれてしまいそうな頭には、やわらかい髪がちゃんとはえている。

「本当に狭也の子か」

 それを聞くと、横たわった人は驚いたように笑った。

「あなたの子でもあるのよ、稚羽矢」

 王子の次は玉のような姫を授かり、宮はおおいに喜びにわいていた。しかし稚羽矢はといえばどこかその喜びごとから隔てられているような気がしていた。
 出産は女たちの戦場であり、そこへは夫といえど男はなんぴともふみこめないのだ。

 母の腹の中でしばらくまどろんでいた赤子は、時というものを知っているようだった。

 生まれ落ちるときをえらんでやってくるのがふしぎに思えて、稚羽矢はほほえんだ。

「どうして人の子は、こんなにもか弱げなのだろう」

 稚羽矢の差し出した指に、血の色の透けてみえるあまりにもちいさな五指をまきつけてくる子は、ただなんであれそこにあるものをたしかめようとするかのように、身をよじった。

「けものの子は、生まれてすぐに立ち上がるというのに」

「ほんとうね。ふしぎだわ」

 狭也は息を吐き出した。

「あなたは覚えている? この世に生まれ落ちたときのことを」

 かるく目を閉じて、稚羽矢はそのときを思い起こした。

 光があった。まばゆいばかりの、光。

 欠けのない、まったく完璧な、すべてがあるべきところに整然とおさまった世界のことを、稚羽矢は思った。
 そこでは、何かを思うとすぐに得られる。思いこそがすべてであり、満ちてたゆとうもののなかには、心を動かすものはなかったのだ。
 それでも、まぶたに初めて感じた光だけはべつで、あの熱さと身を焼くような烈しさはずっと忘れられないのだ。

「わたしもこの子も、生まれ落ちたときに最初に感じたものは、きっと同じだと思う」

 言いながら、稚羽矢は笑った。

「光だよ」

「光?」

 狭也が半身を起こして、稚羽矢をみつめた。

「高く天を昼たらしめる大神の御光のなかに、わたしはいた。そこは、でもひどく寒かったような気がする」

 抱き上げる手はなかった。父のまなざしは一途に闇をにらみ続けるためにあり、その腕は怒りのためにかたくこわばっていた。

「人の子は、いい。誰かの手を借りなければ生きていけないけれど・・・・・・。こうして抱き上げずにはいられないものなのだな。人は脆いようでいて、強い」

 一人では食べることも動くことも、話すことすらもできない。すべてを誰かにゆだねざるをえない。だからこそ、触れてこうして抱いて、泣くことでもあればなんとかして笑顔をみたいと思ってしまう。

「そうね」

 狭也は手を伸ばして、稚羽矢の手に触れた。

「神のように孤高では生きられないわ。あたしたちは」

 すこしひんやりとした彼女の手を握りしめて、稚羽矢はささやいた。

「わたしもこの子も、あなたの情けがなければ生きていけないよ」

「まあ、困った人ね」

 狭也はおかしそうに笑った。

「それを言うのなら、あたしだって・・・・・・その。あなたの情けをずいぶん頼りにしているのよ」

「ほんとうか?」

 みつめると、頬をそめて狭也はうなずいた。

「ほんとうよ、あなた」



「あーあ、すっかり出て行く機会を逃しちゃった」

 室の入り口で、鳥彦がそうぼやいた。

「せっかく花だって摘んできたのに」

 言葉もなく背を向けた科戸王を、鳥彦はあわてて追った。

「ねえったら」

「水入らずにしてやれ。こういう時も必要だ」

「たしかに、王のこわい顔を見せたら姫が泣くもんな。帰ろう帰ろう」

「黙れ。おまえのようなだだっ黒いのに顔をのぞきこまれたら、それこそ姫が泣く」

 鳥彦は羽を広げたりたたんだりして抗議の意をあらわした。

「うそだい。泣きやしないよ」

「やかましい。耳元でぎゃあぎゃあ言うな」

「やあ、やきもちだ。いいかげん、横恋慕などよしたら。身近にいる美女に目を向けなよ。たとえばさ、おれの姉さんとかもなかなか捨てたもんじゃないと思うけど。どう? あー、ああ。でもな、王をにいさんと呼ぶのもなあ、ちょっと考えちゃうなあ」

「おい」

 王はひどく聞き取りにくい声でうなった。

「おまえのその多すぎる羽をむしって、きたる夏を涼しく過ごせるようにしてやろうか。いい考えだろう。遠慮はいらんぞ。こい!」

「うわ、やめ! ちょっと! いだい!」

 あわれ尾羽をつかまれた鳥彦は、乱暴に引きずられていった。

 あとは行き交う者もなく、ぽとりと廊におちた白い花が、明かり取りからさした光をう
けて、ささやかな影をつくるばかりだ。

 ある日の午後は、こうしてすぎていった。
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