黄色っぽい夕暮れの光が、父と話し込んでいる須佐之男の丈高い背中を照らし出していた。近づくごとに、泥水のなかで転げ回ったように衣が汚れているのがわかった。角髪はこわれ、顔にもひどい切り傷が走っている。見ているだけで痛ましい姿だった。まるでふいに獣に襲われでもしたようだ。
「須佐之男!」
 思わず声を上げると、ゆっくりと彼が顔をふりむけた。奇稲田を目にとめると、須佐之男は見据えるように眉をよせた。唇が、笑みにはならないほどかすかに動いた。ふしぎとすんだその瞳の中に何が見えたか、言葉では言い表せない。
「あなたか」
 息を吐き出しながら、須佐之男はつぶやいた。
「何があったの」
 あわてて言うと、顔をしかめて彼は首をふった。泥のついた傷口をすぐにきれいにしなくては。
「大蛇神の案内が、いささかあわただしくて」
 訳の分からないことを言う。
 腕をとって歩き出すと、須佐之男はおとなしくついてきた。ときに大きな山のようにも見える強男が、ぼろぼろになるなんて。どんなことがあったのか、おそろしくて奇稲田はきくことができなかった。
「姫」
 炊場のにぎやかさが、風に乗って客人用の小さな館にまで届いてきた。
 汚れた彼の手を洗ってやり、しぼった布で顔をふこうとした奇稲田のぬれた手に、須佐之男は大きな手をかさねた。しずくが腕を流れていった。灯りがないことを、奇稲田は心からありがたく思った。鳴る胸をしずめる手だてを奇稲田はしらない。ほてった頬を見られたら、恥ずかしくてこうして座ってはいられないだろう。
「川に黒々と、ゆたかに沈んだ大蛇神の鉄をみつけた」
 奇稲田はため息をはいた。
「そう珍しいものではないわ。浜をごらんなさい、黒い砂でいっぱいよ」
「技術をもってすれば、この国は高天原にまさる富を得るだろう」
 泥と血をぬぐったあとの須佐之男の顔は、かたくこわばっていた。
「それに加えて、あとひとつ」
 奇稲田は須佐之男が伏せた目をあげ、まっすぐにみつめてくるのを、ただ見返していた。
「政をかしこく成さねば。国同士がつきあうには、面倒でやっかいだが、欠かせない。わたしは政に殺されるところだった」
 須佐之男は奇稲田の頬を指先でなでた。そのまま手についたしずくをはらうように手を動かすと、灯台にあかりがともった。息をのんだ奇稲田をにらむように一途に凝視する人からは、迷いがいっさい消えていた。
「わたしは高天原の巫だ。ただびとにはない力を持っている。それゆえに故郷をおわれた。戦を避けようと、逃げ出した。何者でもないわたしはさまよい、さすらい、死なぬとて生きてもいなかった」
 汚れた衣を脱いだ須佐之男は、傷だらけの上半身をさらした。それはおよそ御子にはあるまじき、大小無数の傷跡だった。想像もできない仕打ちが、この人の身の上に降りかかったのだ。そして、それは同母の姉がもたらしたものだという。気の毒という一言で片付けることなどできない。しかし、ほかに何も言葉がみつからないのだ。
 巫というものがすこし常人離れした力を持っているからといって、いたずらに恐れる必要がはたしてあるのだろうか? 悔いを、悲しみを知る人が、どんな狼藉をはたらくというのだろう。
(少なくとも、わたくしはこわくない)
「あなたがわたしを生き返らせたのだよ、姫。戦が起こるならば、打ち負かすだけだと、腹をくくることができたのは、あなたのおかげだ。逃げ続けてはいられない。逃げることは、死ぬことよりときにつらい」
「逃げないということは・・・・・・戦うことを選ぶしかないの」  
 須佐之男はうなずきもせず、否定もせずに、ただ奇稲田をみつめたのだった。
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りえ

Author:りえ
基礎絵本セラピスト®
妖怪博士(中級)
漢方養生指導士(初級)

養生とは、生命を養うこと。
健康を保ち、その増進につとめること。

絵本セラピーで心をほぐし、ときに妖怪でほんわかし。
漢方の考え方で身体をやしなっていきます。

無理しない、頑張らない「養生」日記です。

古代日本好き。


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