玉垣の吾が妻の君2

2012.03.19.Mon.16:07
「さっそくけんかか、須佐之男どの」
 男たちのからかいに、須佐之男は苦笑いをかえした。
「怒らせてしまったようだ」
「いやいや、御身をずっと見送っておられたぞ。仲がよろしいことで、けっこうですな」
 須佐之男が鳥髪の大首長の姫を妻問いしたことを、川に連なる六つ里で知らぬ者はいないだろう。
(どこでどう・・・・・・まちがったのか)
 追われ続けるのには、もうあきあきしていた。ようやく腰を落ち着ける場所を、奇稲田というひとをみつけたというのに。大蛇神の鉄を使う、そう言ったとたんに、口づけにおずおずとこたえ、腕のなかでしおらしく抱きしめられていた人が、別人のように冷たい声で須佐之男をこばんだのだ。「あなたがそんな愚か者だとは思わなかった」などと言って。
 それだけではない、「死んでも添わない」とそっぽをむかれた。正直なところ、須佐之男はひどくとまどっていた。腹が立つというより、あの人の涙になぜこれほどたやすく胸をゆさぶられるのか、さっぱりわけが分からず、そんな自分にあきれてしまうのだ。
 大蛇神の守っていた山には、大きな宝が眠っている。いまだ誰も手をつけていない鉄の砂を抱く山が、奇稲田には戦を引き起こす災いの種にしか見えないのだ。
(力を求めることは、戦につながるのだろうか)
 大蛇の剣がかすかにふるえたような気がした。押し黙ってはいるが、大蛇神はたしかにこの剣に息づいている。ひとたび求めれば、奔流のような荒神の力が現れ出るだろう。
 力があれば、あらがえる。支配しようとするものに立ち向かえる。
(血を流したくないからこそ、力を求めるのは、まちがっているのか)
 どう言ったらあの人はわかってくれたのか。
 笑って、あの優しい腕のなかに迎え入れてくれるのか。
「須佐之男どの」
 大声で呼ばれてもかまわずに、草をかきわけ須佐之男は暗い山奥に踏み込んでいった。腰に履いた剣が、道を示すようにふるえるのにいつしか気づいたのだ。ものを言ったり歩みを止めれば消えてしまいそうなくらいかすかな感触だった。
 自分の行く道が正しいのか間違っているのか、須佐之男にはわからなかった。同母姉ならば、その答えをしっているのかもしれない。やさしくうつくしい、狂いかけた大巫女王ならば、あるいは。
 首を振り、須佐之男は大きく一歩を踏み出した。ところが、足がやわらかな草に沈んだかと思うと、そのままかたい地を踏めぬまま急な斜面を滑り落ちた。とっさに手につかんだ細い蔦はあっという間にちぎれ、堅い岩肌にはあとほかにつかみ取れるものもいっさいなく、須佐之男は焦りとともに舌打ちをした。
 鬱蒼とした夏草に覆われていた視界がきゅうに開けると、そこは眼下に細く糸のように見える川の流れを走らせる、峡谷だったのだ。



 須佐之男の冷たい横顔が、まぶたのうらに焼き付いてしまったようだ。
(あの人は、一度も振り返らなかった)
 眉月のわずかな灯りの下で、すこしだけあの人の思いがわかったような気がしたのに。いまは、わずかな共感すらも遠くにかすんでしまったように思える。
 ひとしきり泣くと、今度は怒りがこみ上げてきた。
「しょせんは高天原びとなのだわ」
「これ、そんなことを言ってはいけないよ。あの方は神にもひとしいますらおなのだから」
 父にたしなめられても、母になだめられても、奇稲田はおさまらなかった。鉄は争いを呼ぶものだ。
 鉄は、おそろしく強力な武器になるのだという。
 もし高天原がこの地に鉄があることに気づいたなら、とうぜん支配しようとするはずだ。
 考えたくもない。やっと荒ぶる神から解放されたというのに、なぜ須佐之男はいたずらに力を求めようとするのだろうか。
「あの方にはあの方のお考えがあるのだろうよ」
 崇拝しきったような父の横顔を、奇稲田は見ていられなかった。つい昨日まで、奇稲田自身も彼を気まぐれに地上に降り立った天つ神のように、どこか夢見ているような気持ちでみつめていた。しかし、夕べ奇稲田の寝床にやってきた須佐之男は、雄々しいますらおなどではなく、故郷をおわれた逃亡者でしかなかった。
 大蛇神の力を得た今こそ、あの人が危うく思えるのはなぜなのだろうかと、奇稲田は不思議にすら思った。

 夕刻になっても、出かけた人たちは戻らなかった。
 陽はとうに山の向こうに沈んでしまった。
 館をでると、奇稲田は雲一つないまま赤く染まった遠くの空と、大蛇ののたうつ影のようにも見える故郷の山並みをみつめた。
(知らないわ、あんな人のことは)
 さいわい、夫婦になったわけではない。
 今なら妻問いもなかったことにできる。
(それでも・・・・・・)
 ゆうべ、身の上をあかした須佐之男はひどくさびしい、泣きそうな顔をしていた。涙が浮かばなくても、惑いに潤んだ瞳は泣いているように見えた。高天原の御子ともあろう人が、ただ一人きり、どこへ行くというあてもなくさまよってきたのだ。安らげる寝床も、心を明かせる人もいないままに。
 須佐之男はほんの一時、奇稲田に本意をみせてくれた。
 胸をあたためる気持ちが何なのか、奇稲田にはわからなかった。でも、くやしいけれど、あの人を心底から嫌えないことだけはわかる。
(須佐之男)
 里内がにわかにざわついた。奇稲田ははっとしてきびすをかえし、あぜ道を駆けだした。
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