春日野のまぼろし6

2012.03.13.Tue.04:07
 暗闇の中からふいにのびてきた腕に捕らえられて、真秀は悲鳴をあげそうになった。
「ぼくだよ」
 やわらかな低い声を聞くとほっとして、真秀は息を吐いた。驚いたことが恥ずかしく思われた。佐保の領内に危険な者が入り込むことはないのだから。兄の真澄は少し疲れたようにこわばった顔をしていた。
「どこへ行っていた? 佐保姫が心配していたよ」
「・・・・・・母さんのところへ行っていたの」
 すんなりと嘘が口からこぼれてきて、真秀は決まりの悪さに唇をつぐんだ。なぜ佐保彦のところへ行っていたといえなかったのだろう。
「おいで。佐保姫には伝えたよ。真秀をすこし預かると」
 真秀が戸惑うくらい、兄はいつになくあらっぽく手を取った。 
 連れてこられたのは、佐保姫やほかの娘たちと共住みしている館ではなく、そばに青あおと葉をしげらせた金木犀の植わった、王子の御館だった。帯刀をすませた十三の年に真澄に与えられた御館だ。さっぱりと整えられた室はいくらかひんやりとしていた。灯りがともると真澄は円座に真秀を座らせ、自分も掖月をひきよせて身を預けた。
「すこし話をしよう。真秀と二人きりでいるのは、ずいぶん久しぶりのような気がする」
「忙しかったでしょう、兄さんはこのところ」
 真秀が一人前の扱いを受けるようになってから、なぜか真澄は妹との間に見えない垣根があるようにどこかよそよそしくなった。話をしようとしても、王宮に出向くことが多いので、こうしてゆっくりとした時ももてなかったのだ。
「さびしかった?」
 真澄にやさしくたずねられ、真秀はすなおにうなずいた。
「王宮には目を引くものがたくさんあるから仕方ないって、みんなが言うわ。それって、女の人のことでしょう。真澄はだれかお気に入りがいるの」
「そんなことを真秀の耳に入れたのはだれだろう」
 おかしそうに真澄は笑った。その声を聞くだけで、真秀はうれしくなる。真澄が晴れやかな、耳に心地いい声で笑うだけで、空を覆う群雲も晴れてしまいそうだ。里の空がいつも幾百幾万の星をまたたかせるのは、きっと春日野の男神のような真澄がきれいに笑みこぼすからだと、真秀は半分本気で信じていた。
「ぼくがほしいものは王宮にはないよ」
「大王の妹姫を妻問いするんでしょ」
「いずれ。近いうちには」
 やすやすとうなずいて、真澄は掖月についたひじを居心地悪そうにうごかした。
「大王とのつながりを強くしなくてはいけない。それは政のうちだ。ぼくのつとめだからね」
 兄の穏やかさは、ときにもどかしかった。真秀はにじりよるようにして近づき、真澄の手を取った。ひんやりとした手に手を重ねると、真澄はさりげなく顔を背けた。
「心から欲しいものはないの?」
 兄が日子坐の思惑をはねのけるつもりがないことは承知している。佐保の一族をより強く、より大きくするためには、婚姻が必要だった。和邇の姫を初妻としてから、真澄はつよく求められても公にどこかの姫を妻問いすることをしなかった。人々はだれか思う人がいるに違いない、一途なことだと、佐保の王子の隠された思い人のことを噂した。
「ぼくのほしいものを言ったら、きみは驚くだろう」
 真澄は苦く笑った。
「驚いたりしないわ」
 頬に手を当ててよそを向いた顔を正面に見据えると、真秀はうけあった。真澄はかすかに笑った。その気弱そうな笑みとは裏腹に、はっきりとした声で真澄は告げた。
「きみがほしい」
「あたしが?」
 真秀は驚きもそこそこに、ひどく腹が立ってにらみつけた。人がまじめに聞いているのに、はぐらかすなんてひどい。
「見えないの、兄さん。あたしはここよ。ほしいならおとりなさいよ」
 真澄は笑みをたちまち消して、真秀の手を痛いくらいの力でぎゅうとつかんだ。真秀が驚いて身を引こうとしたのに気づくと、どことなく青ざめた顔で、困り切ったように首を振った。
「よそう。ばかなことを言った」
 それでも握った手を離さないのは、きっと人恋しいからだ。
 幼い頃は、ひとつのふすまにくるまって、よく一緒に昼寝をした。真澄は、真秀がいなければ、たいていいつも一人だった。そうぞうしく御館にかけこんできた真秀を、びっくりしたように、けれどひどくうれしそうに迎え入れてくれる笑顔を見るのが好きだった。
 兄のきれいな髪を結ったりほどいたり、池のそばに咲いていた花をとってきて髪に挿したりして遊んだものだ。いつしか真澄が笑い出すと、真秀もひどくうれしくて笑いがこみあげてくるのだった。
 ふすまを頭からかぶると、昼中がきゅうに夕暮れのようにうす暗くなる。そうした二人だけのたそかれに眠気を誘われて目を閉じ、目覚めたあとはいつも手をつないでいた。
「真澄、さびしかった?」
 ささやくと、ふいに抱きしめられた。きついきつい抱擁だった。息が止まりそうなくらいだ。
「真澄?」
「こわいんだよ、真秀」
 ほとんど涙のにじんだ声で、真澄は言った。
「夢をみた。むごい神夢を。ぼくは真秀をひどく傷つけた。卑怯なふるまいをした。手に入らないものなら、壊してもかまわないとさえ思った。愛しい人がほかの誰かを選ぶなら、死をもってぼくの存在を刻もうとした。きみの身にきざむかわりに、心を踏みにじるまねをして」
「兄さん?」
 それは夢でしょうと、そう言おうとした声がのどの奥で凍り付いたようになった。なぜ涙があふれてくるのかわからなかった。背中に腕を回すと、いっそうきつく抱きしめられた。
 真秀はひろい背中をなでた。そうしなければ、にわかに荒んだ真澄の気持ちは収まらないような気がしたからだ。
「平気よ、真澄。あたしは平気。だから、真澄も大丈夫よ」
 自分をも慰撫するように、真秀は続けた。
 真澄のおそれる夢を、真秀もみたことがある。それはかなしくて、やさしい夢だった。残酷で、救いのない、吐き気のするほどおそろしい夢。
「夢の中で、あたしたちは双子のようにいつも一緒だった。真澄はそこではあたしだけを見ていたから、きっとそう思うのよ。うつつの真澄のまなこはあたしだけじゃなく、ほかの人たちも映すわ。耳はあたしの声だけじゃなく、多くの人の声を聞き取れる。気持ちをこうして声に乗せて明かすこともできる。真澄は、神々の愛児ではないもの。あたしを愛しいというのはきっと、夢の名残のようなものよ」
 しばしの間があった。
「・・・・・・そうかもしれないね」
 いいながら、真澄は腕をはなした。きゅうに解放された真秀は、戸惑って兄を見上げた。真澄は突然何かを断ち切ったかのように、惑いを微笑みのしたに押し込めてしまったようだった。
 いくらか混乱した真秀は、どんな表情をしたらいいかわからず、静かな兄の面をみつめた。どんなに目をこらしても、もうひとかけらの狼狽も気弱さも見えてはこなかった。
「すまなかったね。ひどく疲れていたから、心が浮ついたのかもしれない。宴というのは、なんだか好きになれなくて。もやのなかでむなしく一人で笑い続けているような気分になる。ぼくは、もうやすむことにする」



 真秀を見送ったあと、真澄はひとりで春日野へ降りた。
 月は流れてきた雲に隠れてしまっていたが、危なげない足取りで小川をわたり、野に立ち尽くした。
 真澄にとって、昼も夜も大きくは違わない。陽の落ちた暗闇のなかでも、望めば闇にいきる獣のようにあざやかに物事をたしかめることができた。
「真秀」
 この世でもっとも愛しい人が、御館のきざはしのところで佐保彦に抱きしめられているのを見たとき、しっかりと閉ざしておいたはずの想いが吹きだしてしまったのを真澄は知ったのだった。それはすでに開いてしまった水門のようなものだ。流れて行き着くところは、破滅でしかない。
 決して報われないだろう恋は、秘めたまま生きていくつもりだった。
(きみを愛しく思うのは、夢の名残なんかじゃない)
 真澄はいかなる神に聞き咎められてもかまわない気持ちで、叫ぶように声を上げた。
「真秀だけでいい。真秀しかいらない」
 許されない妻問いだ。押しひしがれるような悲しみは、だがどこかあきらめをともなってもいた。
(わかっている。きみがどうあってもぼくを呼ばないということは。わかっているんだ。・・・・・・それでも)
 とおくの御山が赤々と燃える幻が見えたような気がした。
 夢の中で、真秀は佐保彦を選んだ。
 二人のぎこちない共寝にはいっさいの余裕がなかった。お互いしか目に入らない、必死さだけがあった。
 それを目の当たりにして、感じたのは嫉妬だったのか、怒りだったのか、絶望だったのか。胸をしめた感情はひとつではなく、絡み合う荒縄のように真澄にまとわりつき、生きたいと願う気力を奪うようだった。
 佐保彦になりかわりたいと、真秀が愛おしむものになりたいと、心の底から願った。いまこのときそれが叶わないなら、後の世でそれを叶えようと。
「それこそ、禍つ恋だ」
 不機嫌な自分の声を聞き、そのあまりの切実さに、真澄は少しだけおかしくなった。そうだ、笑えるならば、まだ大丈夫だ。
 たとえ時を越えて愛しい人に出会ったとして、それがなんなのだ。
 いま、このとき、真秀の笑顔を見ていたい。
 死ねば、もう二度と泣いた人の頬をぬぐってやることも、笑いあうこともできない。神夢で見た死は、すべてを凍らせた。暖かなぬくもりもほほえみも壊れた玻璃の器のように砕けて散った。後悔は目覚めたあとも真澄を長く苦しめた。
 その痛みの中で知ったのだ。愛しい人を、真秀を悲しませることだけは、決してするまいと。
 後の世のことなど知らない。
 生きることが難いなら、なおさら生きねばならない。
 押しつぶされそうな苦しさにうめきながら、それだけはただ確かなことだと思えたのだ。
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