春日野のまぼろし4

2012.03.12.Mon.04:07
 夕暮れが西の空を赤く染めている。客人たちが御館に入ると、これまでのさわがしさがうそのようにあたりは静かになった。
 族人ともめったに出会わない小道は薄暗い。いつのまにか篝火のうみだす影のように、親しい人が隣を歩いていたことに気づいて、真澄は苦笑いをした。
「父上、女の御館に行かれるのですか?」
 見事な白髪を結い、雪のような髭をたくわえた日子坐は、老いてはいたが侮りをいっさい許さぬ若々しさがあった。
「大郎女どのに挨拶が遅れたからな」
 うなずいた人は、かすかに目を細めた。
 父がこうして言葉少なくそばに立つときは、語りたいことがあるときだった。そして、何であれ父が言い掛けることを、真澄はただ受け入れるしかないとわかっていた。
 それが一族の栄えにつながるのであればと。
「真秀は元気か。顔を見せないが」
 すぐには言葉を返せなかった。日子坐がいまこのとき真秀のことを話すのは、妹にかかわる相談・・・・・・命令がくだされるにひとしいことだったからだ。
「元気です。かわりなく」
 自分の声はこわばってはいないだろうか。
「美しくなったろう。同母兄の目から見ても」
「・・・・・・ええ」
「おまえが輝夜姫への妻問いをしぶっていたのは、妹のためか」
 明日も晴れるかとたずねるような調子で、おそろしいことを言う。すべて見透かすようなまなざしの前では、いかに霊力を持とうともうそはつけないのだ。
「そうだとしたら?」
「真秀が欲しいのか」
 真澄は無難にほほえむことができたはずだ。王宮でも、つねに笑みをたやさずにいることは、襲をひきかぶり素顔を隠すようなものだった。笑みはこのうえない盾でもある。本心を誰にもあかさずにすむ。
「身を滅ぼすつもりはありません」
「つまらん」
 かき立てられる気持ちがなんなのか、真澄は知っていた。それはあまりにもはっきりしていた。真秀が愛しい。妹としてではなく、より近くそばにありたいと願う気持ちを、ほかならぬ父が見抜いていたとしても、決まりの悪さは感じなかった。
 日子坐にとっては、禁忌もしきたりもたんに人の作りしもので、ひれ伏して遵守すべきものではない。一族の栄え、ひいてはこの島国の栄えのためならば、神をも殺せるのがこの日子坐という男だ。
「同母のきょうだいの婚いは、忌まれるものだ。しかし、この領ではどうだろうな。前大巫女の予言では、霊力ある子が出産すれば、その子もまた佐保を永遠に生かすということではないか。おまえと真秀が婚いすれば、さらなる大きな霊力を持った子が産まれぬともかぎらぬ」
 ほんのささやかな笑みすら凍りつくような気がした。真澄は足を止めて父の背をみつめた。老いてなおすこやかな若者のような立ち姿。若い頃は前大王の信篤き将軍だったという父は、いくつもの武功をほしいままにした。ちいさな名も通らぬ和邇という部族は、日子坐の代でにわかに押しも押されもせぬ大豪族となった。
(佐保も、勝ち得た武功のひとつにすぎないのだろう)
 この日子坐という男にとっては。
「そして、その子が和邇をますます栄えさせると。父上は神をもおそれぬお方だな」
 ひどく乾いた声がでた。真澄は振り返った父をみつめた。
「和邇だけでも佐保だけでもない。この国のためだ」
 遠くをみつめるまなざしを、追うようにして生きてきた。父の物言いや物腰を真似、それこそもう一人の日子坐となるように、父は真澄を教育した。
 多くの豪族とのつきあいのなかで、学ぶことはそれこそ山のようにあった。矛と盾を打ち鳴らす戦はないが、いまは王宮での振る舞いや、そこここで密やかに交わされる取引で政が動く。一瞬たりとも気の抜けない、失敗の許されぬ舞台のうえで踊らされているような気分だ。
「父上は、ご自分のためになにかを需めたことがおありですか」
 ふと真澄はたずねた。
 日子坐はごくかすかに、ふとため息をこぼすように笑った。
「内緒にするなら教えてやろう」
 うなずくと、年の近い友族の王子にでもするかのように、気安く肩を寄せて腕を回し、父は耳元でささやいた。
「おまえの母だけは、一目見て欲しいと思った。それで答えになるか?」
 驚いて見返すと、日子坐は朗らかに笑い声をあげた。
「おまえが真秀を望んでも驚かんよ。あの子は若い頃のおまえの母にそっくりだ。春日野の女神のような、うるわしい子だ。若やる胸をはずませて、一途にくるおしく見つめてくるあれのまなざしを、たぎる血潮を、昨日のように思い出せることだ」
 どんな皮肉より悪意よりおそろしい甘言だった。
 耳にひどく甘く、遠ざけておいたおそろしい想いをあばきたてられるようで、真澄は会釈もそこそこに、逃げ出すようにして父のそばを離れた。
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