新枕1

2011.06.24.Fri.16:51


 冷たい水を頭からかぶるなど、思いもかけないことだった。しかしもっと意外だったのは稚羽矢がやけに派手なくしゃみをしたことだ。
(輝の御子も風邪をひくのか)
 科戸王は鼻をすする稚羽矢を、ちらりと眺めた。不死身を捨て去ったとはいえ、科戸王にとっては稚羽矢はやはり輝の御子であり、ただびと離れした存在なのだった。
(少し水をかぶったばかりで・・・・・・ありえん)
 葛木の館に戻り、乾いた衣に着替えるころには、どこか顔も赤く、目を開けているのもおっくうな様子だった。
 葛木王は娘に客人の世話を言いつけて、出ていったところだ。話に聞いていたように、新たな大王をうべなわず館にこもっていた人とは思えないその態度は、なにか思い煩うことを断ち切ったかのような清々しささえあった。
 輝と闇がともに手を取り合うことは無理なのだと、そう思っていた。しかし、稚羽矢を見る葛木王の目はまるで子を見る親のようで、科戸王をかつての宿敵と知っても、客人としてもてなす態度は変えようとはしなかった。
(調子が狂う)
 狭也が葛木を訪ねなければ、ありえなかったことだ。手出しせずに放っておけば、新たな国づくりを阻む小さくはない火種となったかもしれない。
 狭也は葛木王の閉ざした心に誓約をもって切り込んで、そこへ稚羽矢が手をさしのべたのだった。
(出来もしないことだと、はなからあきらめてしまうようなことを、どうしてそのように軽々とできるのだ)
 代々の水の乙女のなかでも、狭也ほど巫女という枠からはずれて、しかも水の乙女らしい娘はいないのではないかと、科戸王はふと考えた。だからこそ、稚羽矢に出会えもしたのだろうかと、そんなことを思う己が腹立たしいのだった。
「大変、熱があるわ」
 稚羽矢の額に手を当てて、狭也がつぶやいた。
「大丈夫だ、宮に戻ろう」
 稚羽矢はその手を払うように立ち上がろうとして、よろけた。
「しっかりと歩けない人が大丈夫だというの? もう少しここで体を休めた方がいいわ」
「たぶん、一度横になったらしばらくは起きあがれない。変若に入る前のように物憂いんだ。今のうちに、どうしても戻りたい」
 稚羽矢は懇願するようにこちらをみつめてきた。科戸王はため息を吐きだして、静かに言った。
「宮では稚羽矢の不在を知らぬ者も多い。今なら、出かけたことも気づかれずに戻れるだろう」
「科戸王」
 狭也が怒りの矛先を向けてくるのはわかりきっていた。水の乙女とはいえ、ときに火よりも雷よりもおそろしい娘なのだ。
「稚羽矢は妥当なことを言っている」
「今にも倒れそうなのですよ」
「本人が大丈夫と言うのだ、倒れるまい」
「王は稚羽矢をもう少し心配してくださってもよいのではありませんか」
 狭也はそっぽを向いた。
 思う人を前にして、平気な顔をしていられるのは年の功ゆえなのだと、おかしいような気持ちで王は狭也をみつめた。
「この人の様子はただごとではありません」
「確かに、今までにないことではあるが」
「ないことだから案じているのです」
 稚羽矢は脇息によりかかり、目を閉じている。そして再び目を開けたとき、視線を注がれていることに驚いたようだった。
「わたしは宮にあらねば・・・・・・今だからこそ」
 大王の御前に現れなかった葛木王のもとへ、大王が自ら出向いたことは宮の人々の知るところになるだろう。
 まずいのは、今の時期だ。大王は后となる乙女を選ぼうとしていた。そして、自らある豪族のもとへ出向いた。
(妻問いにまつわる訪問ではないと言って、誰が納得する)
 稚羽矢がそこまで考えているのかはわからないが、そのほかに早く宮に戻る理由はみあたらない。
 稚羽矢は重たげに口をひらいた。
「わたしは、幼子も同じだ。この豊葦原で、何をなすべきか、どのように振る舞うべきかもわからない」
 稚羽矢は狭也をみつめた。
「そのせいで、あなたにもいやな思いをさせた」
 狭也は驚いたように目を大きくみはった。
「天の宮の方々にお会いして、ようやくわかったことがある。わたしが地上に残った唯一の輝の御子で、大王であるということがどういう意味なのか。人々にいらぬ不安を抱かせてはならないと、そう思うんだ」
 稚羽矢は伸びる若木だと、開都王が言ったことがふと思い出された。
 もう彼に幼さはない。しっかりとしたまなざしは頼りなげに揺れることはないし、脇息に身を預けるその姿も、かすかに笑みを浮かべてみせる気遣いも、もはや手のつけられない荒ぶる神とも見えず、思慮ぶかい様子ですらあった。
 そうして思いやるということを教えたのは狭也なのだろう。厳しい輝の神に赦しと慈しみを教えるなど、誰にでもできることではないのだ。
 狭也と稚羽矢はしばらく声もなくみつめあっていた。それをはたで眺めているのが苦痛になってきたころ、彼女は怒りを流し、あきらめたようにつぶやいた。
「わかったわ、そうしましょう。あなたが望むなら」



 葛木から戻ると、稚羽矢はいつものように昼の御座で政をなした。科戸王の肩を借りて狭也のもとに戻ってきたのは昼過ぎだった。 寝床に横たわった稚羽矢を見下ろして、科戸王は感じ入ったようにつぶやいた。
「こやつの辛抱強さは呆れるほどだ。こうして担いでこなければ、再来年の建築の決めごとまでするつもりだったのだから」
「ありがとうございます」
 狭也は素直に頭を下げた。
「今朝あたしが言ったことをどうか許してください」
 科戸王は苦笑した。
「稚羽矢が大丈夫だと言ったなら、顔が赤かろうと、なんだろうと、放っておいたろう。心底、これを案じることができるのはそなただけだ」
 目を閉じた稚羽矢はじきに冷たく濡らした手布ひたいにあてられて、すうっと息を吐いた。そうして寝ていると輝の御子でも大王でもなく、ただの風邪をひいた若者にしか見えない。
「王、この人がどのように見えますか」
 狭也はふとたずねた。科戸王はしばし考えたあと、ゆっくりと言った。
「稚羽矢はわれらと同じか、それに近いところにいるのだろう。少なくとも、鼻水をたらしているやつは神には見えん」
「ええ」
 狭也はほほえんだ。かつて、輝の宮から稚羽矢を連れ出したすぐあとのことを思い出したのだ。鷲乃庄へ向かう道すがら、稚羽矢に藍色の衣と袴を与え、やけ焦げた髪を切りそろえてくれたことを。
「ああしてくださったのは、王ですね」
 いくらか意表をつかれたように、科戸王はうなずいた。
「雷雲を通って落ちてきたような、ひどい有様だったからな」
「あなたがそういったお心遣いをなさる方だということを、知っていたはずですのに」
 狭也はささやくように言った。
「正直を言うと、あたしは王がおそろしかったのです。仲間を捨てて、輝になびいた娘など、お許しにならないと思っていました。憎むべき輝の末子である稚羽矢のことも、疎み憎んでいらっしゃるのだと」
「それは、ちがう」
 科戸王は身を屈めひざを付き、狭也の顔をのぞき込むようにして言った。
「そなたにはそなたにしかできぬことがある。稚羽矢のことだけではない。そなたには、思う以上にやるべきことが多くあるということだ。それに、言っておくが、そなたを許す許さぬなどと考えたことは一度もない」
 一息に言い切って、王は狭也の頬を親指のはらでかすめるようになでた。
「恨みに思ったことは一度だけ。そなたがわたしの贈り物を身につけてくれぬことだけだ。稚羽矢のことは、知らん」
 狭也は王をみつめたが、冗談ではないことはあきらかだった。目をそらしても視線は痛いくらいに感じられる。稚羽矢の寝顔はぴくりとも動かず、顔をうつむけているのもつらくなるほどだった。
 ふと、吹き出すような声がした。顔を向けると、王はかすかに微笑んでいた。笑顔があまりに見慣れぬものだったので、狭也は落ち着かない気持ちで声を上げた。
「からかったのですね」
「いいや。わたしは冗談が嫌いだ」
「なら、どうしてお笑いになるのです」
 立ち上がり、王はきびすを返す前に狭也をひととき、じっとみつめた。
「そなたを困らせたいわけではないのだ。悪かったな。・・・・・・稚羽矢はよくやっている。よく休ませてやるといい。政はなんとでもなる」
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