あなたの生まれた日~稚羽矢

2012.03.08.Thu.03:36
 さあ、おいで。そんなところに隠れていないで。
 あなたを稚い鹿かなにかと思ったよ。木の陰でひっそり息をころしているから。
 あなたはいくつになったかな。そうか、もう十か。あと五、六たび季節がめぐるころには、あなたも大人になるのだろうね。
 さあ、顔をお上げ。あなたはよい目をしている。まっすぐで、輝いているよ。あの人から受け継いだ目だね。強くてすずやかだ。
 わたしはあなたの目がすきだよ。
 ・・・・・・どうして泣いているのだ?
 稽古で傷でもできたか? 
 科戸王にしかられたのか。それとも、ほかに思うにまかせぬことがあったか。
 大人になりたくないか。どうしたのだ、あなたらしくないね。
 大王になりたくない・・・・・・そうか。わたしも、できることなら誰かに御座をゆずりたいと思っているんだよ。これは、内緒だけれど。
 まとわりついてくる人が多いのは、わたしが大王だからなのだ。
 あなたも、覚えておくといい。
 すべての役割を取り払ったあと、我が身に何がのこるか。大王であることは単に役割であって、わたしは大王である前に稚羽矢なのだよ。
 そんなに驚くことではない。
 大王として考えると悩ましいことでも、稚羽矢としてどうするかと胸にきいてみれば、答えはすぐにでる。
 これはわたしとあなたの秘密にしてほしいのだが。
 わたしの命にもひとしい宝は、あなたたちなのだよ。あなたたちがいなければ、わたしはわたしでいることすら見失ってしまうかもしれない。
 とこしえに、すこやかであってほしいと思う。
 さあ、もう泣くな。もっと悲しくなる。吉事をよぶには、笑うことだ。
 ・・・・・・うん、それでいい。
 あなたの生まれた日のことは、よく覚えているよ。
 とても元気な産声が耳に届いて、わたしはぶたれたような気持ちがした。人の声とも思えなかったから。
 あわてて狭也のもとへかけつけて、腕に抱かれたあなたを見たんだよ。赤かった。火の山から吹き上げた火の粉のように真っ赤だったよ。
 あなたは小さな手をのばして、狭也の胸乳をさぐっているようだった。生まれたばかりなのに、自分の命をつないでくれるものを知っていたのだね。わたしは父から生まれたが、それでも狭也の胸乳にふれると心がやわらぐ心地がするよ。ふしぎだね。
 
 あなたの誕生を大勢の人々が言祝ぎしてくれたよ。
 豊葦原のつぎの大王になるべき、日嗣の御子だとね。
 暗い顔をしてはいけないよ。そんなにいやか。
 どうも科戸王があなたをおびえさせたとしか思えないな。
 わたしもずいぶん、王にしかられたものだ。
 今でも? そうだな、ああ、ときどき。

 いいか、あなたは王子であるまえに、わたしと狭也の子だよ。
 子どもは、笑った顔がいい。あなたに元気がないと、わたしもひどくつらいような気がするよ。
 御座をあずかるのは、そう辛いことばかりではない。いとしい人がそばにいて、笑っていてくれるならね。重い荷でも分かち合ってくれる人がいれば、険しい道を楽しく行ける。歌いながら、景色を愛でながら。
 あなたにも、そんな人がみつかるといい。
 願っているよ。
 そうだ。願いの強さは、おろそかにはできないものだと、狭也が教えてくれたのだった。
 願うことは、祈ること。祈ることは、愛おしむことだと。

 あなたがずっと笑っていられるように、わたしは祈ろう。 
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