恋心2

2012.03.04.Sun.05:38
 竹芝へ嫁にきて初めての正月には、梅の花を二人で並んで見た。
 やさしい目でかれんな花をみつめる夫ばかりが気になり、花見どころではなかった。
 そして二度目の春。婚家での暮らしにも慣れ、自分の居場所もできた。なにより、日下部にいたときより、ずっと笑うことが増えたような気がする。
 
 けれど、いまだに慣れないものがある。
 もてあますのは、あさましい恋心だ。

 目をこすりながら外へ出て、千種は雪のやんだ灰色の空をみあげた。季節はずれの大雪が降ったのは夕べから今朝がたにかけてのことで、ふかふかの雪を見て心が躍ったのはほんの一瞬だった。
 夜が明けようとしている。
 静けさが今はいとわしかった。
 藤太はゆうべ帰ってこなかった。阿高は日暮れの前に引き上げてきて、千種を決まり悪そうにちらとみただけだった。藤太にだけ用事ができたのだという。床をのべても横になる気にはとうていなれず、むりに横になっても眠気はちっともおこらない。寝返りをうちながら、あらぬ想像ばかりしていっそう心が乱れた。
 けっきょく、眠れずに夜を明かしてしまった。
 庭におりて、つもったばかりの雪を手のひらにすくいとると、すぐにとけた雫が指のすきまからこぼれおちた。
(わたしのようだわ、この雪は)
 冷たくあしらっても、あの人を前にするとどうしても心がほどけるような気持ちがして、出会ったばかりのころはひどく戸惑ったものだった。
 両手のうえにすくい取られた雪のように、あとはあえなく溶けゆくだけだ。一度心を許せば、二度と突き放せない。身も心も、あの人に触れられればかんたんにとけてしまうのだ。
(たわいないことだわ)
 もしかして、藤太は張り合いなく思って、飽きてしまったのではないだろうか。よそに好きな人を見つけてしまったのではないだろうか。
 疑うのは理由のないことではなかった。
 坂の向こうの家をどうやら頻繁に訪ねているらしい。親戚筋でもあるので皆はふしぎとも思っていないようだ。
(あの家には娘さんがいる)
 おしゃべりで元気な一人娘がいる。千種よりずいぶん若い、はつらつとした娘だ。
 千種は胸が苦しくなって、細く息を吐いた。
(まさかね・・・・・・でも)
 朝帰りが頻繁になった。千種と目をあまり合わせようとしない。
(・・・・・・どうしよう)
 寝床もしばらく別々だ。昨年の秋に機織り小屋を建ててもらい、それ以来ひまをみつけてはこもっている。思えば、藤太の世話に至らないところがあったのかもしれない。夢中になると時を忘れてしまう。藤太は何も言わなかったけれど、ひたすら機織りをする嫁をつまらなく思ったのかもしれない。

 部屋に戻って冷えた寝床に座り込むと、洗濯のすんだ夫の衣を手に取った。あわせの所をなでているうちに、ひどく情けなくなって、目頭が熱くなった。枯れ草色の衣を抱きしめて、顔をうずめた。
 よく乾いた衣は、日なたのにおいがする。
 さっぱりとした、ぬくもるような藤太の髪のにおいだ。
「あなた」
「なんだい?」
 ただ驚いたような声がして、千種は衣を抱きしめたまま、つっぷした。足音もさせず部屋に入ってきた人は、吐く息で手をあたためながらそばに来た。
「まだ寝ていると思っていたよ」
 千種はしいて冷たい声で言い返した。
「寝ていればよかった?」
「ごめん」
 顔を上げて、千種は藤太をにらみつけた。
「あやまるようなことをしてきたの」
 見返してくる夫の目は、ふしぎそうに大きくなり、それからすぐにまばゆいものを見るように細められた。
「泣くほど一人寝がさびしかったのか」
「あきれた人ね。どうしてそう・・・・・・」
 藤太の視線を追うと、胸にきつく抱きしめたままの衣がある。
「しばらくそんなふうに抱きしめてもらっていないな」
 千種は思わず叫んだ。
「これは、その、ちがうの」
 言う間に抱き寄せられた。
「ちがうのか」
 千種は息を飲んだ。藤太の体は冷え切っていた。長いため息を吐き出したあと、夫はにっこりと笑った。
「残念だな」
 得意げにみつめてくる目が憎らしくて、千種は目をそらした。それでも藤太のほうが上手で、なだめるような声でささやいた。
「なあ、覚えているかい、鈴の衣のことだけど」
 鈴は竹芝に来たとき、一そろいの衣裳のほかは何も持っていなかった。しかし、その衣だけで一家族が贅沢に正月を過ごしてまだ余りあるような、とても高価なものだということはわかった。
 何より、千種の目を奪ったのは裳の色だった。うすい黄色は赤みがすくなく、絹の下裳はむらなく美しくなめらかに染め上がっていたのだった。どうしたらあんな色がでるのだろうと、そういえば藤太に言ったような気がする。衣をあんな色に染められたらいいのに、と。
「くちなしというので染めたら、あんな色がでるらしい。残念なのは、ここらではみかけない樹だということだな。遠江まで行ったらありふれているそうだけど」
「どこでそれを?」
「坂向こうの家の、ほら。茂の母さんに聞いた」
 藤太は顔をしかめた。
「あの人は古くから染めものが盛んだったところから嫁に来たようだよ。いつだったか、茂がそんなことを言っていたことを思い出したんだ。まいったのは、茂が帰ってこないのはおれのせいだと、母さんが怒り心頭でさ、家にも入れてくれなかったんだよ。いや、ほんとにまいったよ」
 千種はまばたきをした。
「しばらく口もきいてくれなかったんだ。仕方がないから明け方に水を汲みに出るのを待ち伏せたりしてさ」
「あなた」
 すまないような気持ちで、千種は夫を抱きしめた。
「ごめんなさい」
 藤太はやさしく聞き返した。
「あやまるようなことを、何もしてないだろう」
 少しだけ千種は口ごもった。
「疑ったわ。よそに好きな人ができたと思ったの」
 千種の頬に手を当てて、藤太はまじまじと見つめた。
「内緒になどしないほうがよかった。こんな顔をさせてしまうくらいなら」
 視線にやかれるようで、落ち着かない。うつむこうとするのを、しかし藤太はゆるさなかった。
「疑うというのなら、お互い様だよ。きみが本当におれの妻なのか、おれもときどき信じられなくなるときがあるから」
 ささやかな口づけのあと、藤太はもどかしそうに眉を寄せ、こわい目をして言った。
「よそに好きな人? そんな余裕などないよ。千種はちっともわかっていないな」
 震えがくるような、ひどく落ち着かない気持ちで千種は夫をみつめた。
「初々しいのも、罪つくりだ。二度ときみがおれの心を疑えないようにするには、どうやったらいいと思う」
 答えは見交わす目の中にあきらかで、疑いをさしはさむ余地は一切ないのだった。
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