恋心1

2012.03.02.Fri.05:09
 雪どけの流れてくる川に足をひたしていると、体のしんから凍えそうになる。寒さをまぎらわそうと、千種はすぐそばにいた人に声をかけた。
「冷たいわね」
「ほんとう」
 鈴は笑った。川べりは女たちが自由に好きなことを言い合える貴重な場所で、千種や鈴もここにいるとずいぶん気晴れがするのだった。
 もっとも、竹芝に来たばかりのころは洗い場をみつけられず、衣を抱えたまま右往左往することが多かったし、そんな二人を見ていい気味だと思う人たちもいたようだ。まだ二連にやみがたぬ恋心を抱いていた娘たちは、とくによそから来た嫁を仲間とは認められなかったようだ。
 一度、洗濯物をわざと流されたことがある。
 満足に仕事もできないのかと笑われ、たまらず言い返そうとした千種をとめて、鈴は笑ったのだった。川面を蹴りたて流れていくものを追いかけて、ようやく追いつき得意げにかざして見せたときは、本当におかしかった。所帯を持たない娘たちにはいささか刺激がつよすぎたかもしれない。それは下帯だったのだ。
「これがないと阿高が困るわ」
 悲鳴の中で驚いたように目をみはった鈴の顔を思い出すと、また笑いがこみあげてくる。
「千種。楽しそうね」
 顔に跳ねとんだ水を腕でぬぐった鈴が、ふしぎそうにたずねた。
「水は冷たいけれど、こんな天気だと気持ちがいいわね。雲はどこに行ったのかしら」
 さえぎるものがなく降り注ぐ日差しはあたたかで、心までもぬくもるようだった。そばにこの人がいてくれるからだと、千種はふと考えた。隣り合ってはいるものの諍いの多かった日下部をよく思わない人は多く、はじめはこちらが声をかけてもまったくいないものとして扱われた。それは楽しいことではなかったが、失敗してもめげない鈴を見るうちに、どこからか負けていられないという気持ちがわきでてきたのだ。人の輪にとけ込むことが苦手だとも言ってはいられなかった。竹芝の藤太の嫁として、女衆の集まりには出なければならなかったし、果たすべき仕事もあった。
「雲はあるわ」
 千種はしいて忘れようとつとめていたことをふと思い出してしまい、ため息を吐いた。
「どこに」
 鈴は洗濯物と格闘しながら、ちらっと顔をあげた。
「あのこと? 気のせいよ、藤太が千種に何を隠すというの。あの人はなんだって打ち明けてしまうじゃないの」
「様子がおかしいの」
 声を潜めて千種は言った。
「ゆうべだって、ずいぶん遅く帰ってきたわ。それなのに朝起きたら寝床はからっぽ。行き先も聞いていないのよ」
「畝起こしに行ったのよ。先頃男手を亡くした家に手助けに行ったの。阿高もずいぶん早くでかけていったわ。起こさないように黙っていったんでしょうよ」
 鈴はほほえんだが、気持ちは晴れなかった。
 一言でも聞いておきたかったと思うのは、わがままなのだろうか。夫がどこに行ったか知らない妻がどこにいるのだろう。藤太は気づかってくれたのだろうけれど、なんだか素直には喜べなくて、千種はまたため息を吐いた。
 
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