祝言の日まで20

2011.06.10.Fri.11:05
御方の「いいもの」とは、狭也にはとうてい想像もできない途方もないものだった。
 丘や山から土地を眺めおろす国見はあれど、こんなすさまじい光景は大空を舞う鳥くらいしか見たことがないだろう。
 狭也の身は山も雲すら越えて、風の吹く空高くにあったのだ。
 息が止まりそうになり、よろけた狭也を支えたのは稚羽矢の腕だった。彼は顔色一つ変えず、静かな表情で眼下を眺めおろしていた。
「平気か? 大丈夫だ、ゆっくり目をあけてごらん」
「あたしたちは鳥にでもなったの」
「まぼろしだよ。天の宮から眺めおろしたら、きっとまほろばはこのようなのだろう」
「まほろばですって」
 腕にすがりつき、おそるおそる目を開けると、めまいをもよおす高さに吐き気さえ感じた。すぐ足下を流れるように飛んでいく鳥の群れの羽音はまぼろしとは思えなかった。
 心を決めて見下ろすと、地を踏み抜いたような盆地があった。雪まだ残る山々は白く染まり、所々茶色い大地が見えている。そして、豊葦原で唯一の都、宮の舎殿とそれを取り囲むように館がひしめいているのが見えた。
「こうして眺めてみれば、すべてはとるに足らぬことに思えてくる」
 ごく近くで懐かしい声が聞こえたかと思うと、震える手をそっとあやすように撫でられた。はっとして顔を上げると、かの方の微笑みがあった。稚羽矢によく似た顔立ちだが、改めてその印象がまったく異なることに狭也は気づいた。
 稚羽矢には風のような清新さがある。何にも縛られず、どこへでも吹いていける清々しさがあるのだ。月代王には侵しがたい完璧な美しさがある。月は欠けては満ちる。しかしそれはすべて日のなせるわざであって、ただびとの踏み入れる隙間などはないのだ。
「お許しください。稚羽矢だと」
「なぜ許せと? そなたはすでに許しを得ているではないか。わたしと目と目を見交わせるものは、そうはいないのだよ」
「お戯れを」
 輝の御子のきまぐれは、狭也を落ち着かなくさせたが、以前のように舞い上がって自分をなくすような真似はしないですみそうだった。神のなさりように嘘はない。その時その場所での真実を語られる。
 狭也を愛おしむやさしい声音は、嘘ではないのだろう。それは素直にうれしいことだ。
「弟よりさきにそなたに妻問いしたのはわたしだ」
 魅惑するような瞳でみつめられるのはひどく落ち着かないことだった。慕わしく思う気持ちは変わらない。きっと、死ぬまで抱き続けるにちがいない。
 しかし、恋かと言われれば、違う。夜空や真昼の空に輝く月をあこがれ眺めるような畏敬の念なのだった。
「何のための戦だったのかと、よく思う」
 ふと、吐息をもらすように王は言った。
「豊葦原を清め、父神をお迎えせんと、それだけを考えて過ごした年月をどこかむなしいと」
 狭也はそっと抱え込むように回された腕を、振り払えないまま抱きしめられていた。
「むだだったと、御方はお思いなのですか」
 このふれあいは、恋慕の情のなせるものではない。疲れた身を一時、脇息に預けるようなものだと、狭也はふと思った。
「この世に無用なものなどありません」
 月代王は己を笑うかのように低くささやいた。
「何もかもが運命の輪の上にあり、その上をぐるぐると回されているだけだと、わたしにはそのように思える。輝と闇の戦も、和解も、すべてはじめから仕組まれていたものではないかと」
 驚いて狭也は身をよじり、月代王を見つめた。稚羽矢によく似た目眉は玲瓏として、ただ悲しみがその美しさをわずかばかり陰らせていた。悩ましいお顔を眺めるうち、狭也はおそらくはじめて、幼子のような脆さをかいまみせた王を、自分から抱きしめた。
「無駄なものなど、ありません。あらかじめ定まっていたとして、それが何なのでしょう? あたしたちは、ただ泣き、笑い、人を愛して、育て、亡き人を悼んで、生きていくだけなのですから。そうしてすべてが終わる日が来ても、笑っていたいと願うだけなのです」
 うながされて顔を上げると、眉から憂いを消し去った王が、ほほえんでいた。
「そなたはまことに巫女なのだな。そなたの言葉はわたしを癒す」
 それから、少しだけ唇をゆがめた。
「狭也、そなたがわたしの巫女であればよかったものを。稚羽矢に渡すのは惜しい」
 狭也が顔を赤くしていると、遠く雷の音が聞こえたような気がした。
「逢瀬もおしまいだ」
 首をかしげて王は狭也に口づけをすると、そっと離れた。
「祝言は月の満ちる日にするがいい。わたしがそなたたちの門出を祝い、清めてやろう」
 水をあわただしく蹴り立てる音がしたかと思うと、雲の帳がすっと晴れた。
 気づくとそこは湖のほとりだった。湖のなかほどに、霧に映し出されたかのようにぼんやりと映る王と、わずかに背の高い人を睨みあげるように真向かう稚羽矢の姿があった。
 仲むつまじいという様子ではなかったが、そうして並び立つと、地上にあるものすべてがなびきひれ伏すのではないかという神々しささえ感じるのだった。
「さあ、地上の神を解き放つぞ。あらぶる自然がこの地に戻る」
 王は声を上げた。稚羽矢が狭也をみつめてきたが、その視線は狂おしく、心穏やかにはいられないほどだった。
「そなたらを害することもあるかもしれぬ。それが神というもののさがなのだ。わからぬでもよい、そなたらは人であれば」
 王はそう言うなり、太刀を降りあげて水面に突き立てた。するとにわかに風が巻き起こり、大きな風の渦が湖の水面をかき回し、波立てた。狭也の腰ほどの高さの水の壁が目の前に現れたかと思うと、それが引くとともに水柱が生き物のように天に昇った。
「狭也」
 飛ぶように危なげなく駆けてきた稚羽矢は、狭也を我が身の下にかばうようにしてひざまずいた。次の瞬間、水の柱がくずれおちて波となり、水辺にいた人々に襲うように降りかかった。
 濡れねずみになった姿で立ち上がり、稚羽矢は大声で不服を唱えた。
「あんまりです」
 水面は静かにたいらかで、今起こったことがまるで夢のなかの出来事のように思えた。しかし全身びしょぬれなのは確かで、あまりうれしくないことに今この時期がそう暖かくもないことも確かなことだった。
「そう怒るな。土地神を起こすにはこれくらいはしなくては。誓約の供物もたしかに受け取ったぞ」
 稚羽矢の情けない顔をみて、兄神はほほえんだ。
「日と月がこれより後、そなたらにまみえることはおそらくあるまい。しかし、天の宮から見守っているよ。そういやな顔をするものではない。そなたらやその子孫がどのように豊葦原をもり立てていくのか、見届けるのがわれらの役目」
 水面が揺れ、その姿は消えた。声ばかりが、こだまのように木々の間に響いていた。
「その身を拭って、柔やかな腕にあたためてもらうがいい。思うままにできるそなたは、じつに幸運なのだ、それを忘れるな」
 そのあとに聞こえた声は、遠くから小さく寄せてくるようにささやかなものだった。
「弟よ。大切なものなら、どうかためらわず、一刻もはやく手に入れて、そしてとこしえに慈しむのだよ。見失わぬように」
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