春着の子1

2012.02.27.Mon.16:07
 きんきんと耳を刺す冷たい風が、いつのまにか頬をやんわりなでるような春の香りを運んでくるのに気づいて、鈴はふと立ち止まった。垣の向こうから駆けてくる人は、息せききって門口に飛び込んできた。何かを探すようにぐるりと首をめぐらせて、目が合うとあっと言う間にすぐそばに立った。
「どうしたの、あわてて」
 鈴は笑いをかみ殺しながら聞いた。
「どうしたもこうしたもない」
 にらむように見下ろされて、鈴は思わず目をみはった。低い声でそう言われると、なんとなく落ち着かない。
「なあ、どうして、いつもそうなんだ。おれに一言のことわりもなしに、こんな大事なことをきめるなんて」
「まあ、なんのこと」
 疑うようなまなざしを向けられて、鈴は吹き出した。
「母さんはいつもそうだ。知らんぷりして、内心大笑いしていたんだろう。親父も親父だよ」
 今年十四になった息子の肩を、鈴はたたいた。
「笑いものにするわけないでしょう」
 父親ゆずりの明るい髪はややくせっ毛で、一つに結んでもあちこちはねている。目を隠すくらい伸びた前髪の合間から、怒ってもなお愛嬌のある目がのぞいている。ほんの赤子のころから、泣きむずるときやあくびをするとき、眉間にこまかなしわがよるところはかわらない。この数年で背丈はぐんぐん伸びて、鈴はもう見下ろされるくらいだった。
「深い考えがあるのよ。けっして悪いようには」
「十分悪い。もういやだ」
 肩をいからせて出て行く後ろ姿に鈴は声をかけた。
「田島さんによろしくね」
「ああもう! くそ」
 叫び出て行く息子と入れ違いに、夫が屋形から顔をだした。
「あいつの声が聞こえたような気がしたが」
「たくらみが露見したわ」
 夫は深いため息を吐き出した。
「もともとあいつの本望なんだから、いつまでもむくれてはいないさ」
 ことの始まりは、息子が都というのを見てみたいと言ったこと。
 もともとあの子には、知らず都に焦がれるようなところがあった。取り立てて都の話を聞かせたつもりもないのに、いつかたずねてみたいと胸を高鳴らせているような子なのだ。
 夫は取り合わず、一時彼らは口もきかないありさまだった。田島のもとに住み込むようになって半年、今は自分の仕事に楽しさや誇りを見いだして、みやこ都とも言わなくなった。
 子馬の世話にいつしか夢中になっていたあの子は、さぞかし都行きの話を聞いて驚いただろう。
「阿高」
 ふと、鈴は夫を名前で呼んだ。息子が生まれてから、いつのまにか名で呼ぶことは少なくなっていた。驚いたように見返してくる目のなかに、血気盛んなころの熱がちらとのぞいたような気がして、鈴はあわてて目をそらした。分別をわきまえた大人の顔が、ふとしたときに手に負えない若衆のそれに戻るときがある。そんなときの夫には手向かいもできない。鈴ははぐらかすように笑った。
「なんだよ、人を呼んでおいて」
「なんでもないわ」
 夫をまえにして身の危険を感じるなどといえるはずがない。
「あいつもなんだかんだで、もうじき大人だなあ」
「・・・・・・都は、遠いわね」
「武州をでるのは初めてだものな。まあ、行くといっても茂のところだ。せいぜいこき使われるといい」
 のぞきこむようにして、阿高は間近で鈴を見つめた。日のあるときにこうまで近づくことはめったになく、笑いにまぎらして鈴はそっと身を引こうとしたが、腕をとられて引き寄せられた。
「さびしい?」
 不機嫌な声で問われて、鈴はしぶしぶうなずいた。決めたかと、いつかそうたずねたのと同じ表情だったので、鈴はほとんど泣きたいような気分で夫の胸をたたいた。
「もうすぐお目当ての春着の子に、にこにこして言い掛けるようになるでしょうね、あの子も。手を離れていくと思うとさびしいの」
 阿高は笑った。
「子離れが必要だな」
「わかっているけれど」
「そんなにさびしいんなら、縫い物でもするといい」
「縫い物?」
 言い返そうとしたとき、阿高は鈴の耳元で、おかしさをこらえるように抑えた声でささやいた。
「わからないのか。産衣だよ」
「阿高!」
「おまえにそうして呼ばれると、いい気分だ」
「まあ、ふざけたのね」 
「本気さ。なあ、やっぱり、大きくなった子は早く手放すべきだよ」
 すました顔つきで阿高は言った。
「やれやれ。あと一仕事片づけてくるか」
 歩いていく背中を見つめていた鈴は、鼓動が早くなった胸を押さえた。
「阿高ったら」
 小さい子を肩に乗せ、髪の毛をひっぱられて渋い顔をした阿高を、もう一度見られるものなら見たいものだと、ふと思われた。
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